「水のトーテム」20日 川津望+坂本美蘭公演ご報告

(撮影:月読彦)

20日の夜は川津望氏、坂本美蘭氏の2人の表現者がともに身体と声と装置を駆使しながら、水のトーテムの空間を過剰なまでに満ち溢れさせ、新たな物語を開きました。今回は演者を含む複数の報告者による文章で、その時に生じた現象の様々な側面をご紹介いたします。

まずは演者の一人でもあった川津望氏のことばを。

DUOで感じたことは、偶然性をも味方につけてやることの厳しさでした。そして、物語をお客様に伝えるためにはより自分、一緒に表現するパフォーマーの所作、考えた演出、アドリブにこそ具体性や意味性を過剰につけたほうがよいのではないか、ということでした。ラスト、人魚がわたしに寄り添い一緒に眠るアドリブは、あの時にしかできなかった表現だと思います。わたしが床に叩きつけた豆腐が荒涼とした風景を通って、やさしさへと変換され着地する。果たし得なかった誰かの思春期のパラレルワールドが、美蘭さん、塚本さん、月読彦さんと作り上げられたことはうれしかったです。

豆腐を持った植物鳥は外へ行くことができ、コンビニへ実際に行って買い物までできる。人造美女は水のトーテムの城で人魚に変容し、外へ出ることができない。実は植物鳥は、植物博士306号であり、実験を重ねた結果、自分もキメラとなってしまったのだった。それでも植物鳥は人魚に外を教えるために、木枠の戸を開けて外部を示すのだった。ウィダーインゼリーを人魚が飲み、塚本さんがOHPで人魚の胃袋の中を表現する。植物鳥は水のトーテムの入っていない鉄の枠組みを上半身に取り付けるが、水のトーテムにはなれない。人魚は植物博士306号だったものに寄り添い、ふたりは眠り続ける。そんな物語でした。

(撮影:月読彦)

(撮影:坂田洋一)

(撮影:月読彦)

「水のトーテム」19日 秦真紀子+広沢純子公演ご報告

(撮影:柴田正継)

金曜日の夜、塚本氏によって.kitenに築かれたトーテムに内包された水は、秦氏、広沢氏の身体、音、行為とともに空間を満たし、そこを深い深い場所へと変えていったようです。空間の変容、そうしてあらわされるもの。立ち会った川津氏はそれを以下のように報告しています。

水のトーテムは青い紐につながれた。木枠の内側には広沢純子が灯した蝋燭の火がOHPを通して揺らぐ。わずかな明かりのなか、秦真紀子は青いパーカーのフードを目深にかぶり、青の短パン姿で椅子に座った、秦にも青い紐が結ばれている。広沢のアコーディオンがふいごのように風をおくり、水のトーテムは洗われていった。 18世紀のイタリア、最も名の知れた修復師にして贋作家であったバルトロメオ・カヴァチェッピなら、秦を修復師と名指すかもしれない。「自らの手法を完全に捨て置く(※1)」かのようにこの日の秦は動きを限定させながら、青い紐を引っ張ることで水のトーテムを上に吊るし、木工ボンドの注入されたシートの一部を剥がした。秦の担う重力と、塚本の水のトーテムのそれは、広沢の奏でる3拍子調の旋律により領分を接して踊る。それはワルツよりも激しており、まるでアルプスの渓谷の奥でたのしまれるダンスのようだった。美術史家マリオ・プラーツは「ハイド氏の顔から少しずつジキル博士が透けて見えてくるのとそっくりに、贋作の仮面の下から贋作者自身の顔が少しずつ現われてくる」と言っている。 秦と広沢が本公演で過剰に修復したかったものは何か。塚本がシャボン玉を吹くと、秦は水のトーテムのひとつから水を浴びた。水のトーテムの「水」が私を、私の技法を模倣していると表現したように思われた。作品介入者という観点もまじえ、秦は塚本の水のトーテムの手法を尊重しながら、うす青く皮膚に透ける静脈/身体を徹底させ、また広沢もそんな秦の手法を尊重しながら空間や秦の身体の並行世界を奏することに徹底した。作品介入者による修復が徹底されることで生じる「贋作」という問題を逆照射させることで、秦真紀子と広沢純子はそれぞれの表現をも修復したと言えるだろう。

(※1)保存修復の技法と思想 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで 著:田口かおり 平凡社より

 

(撮影:いずれも柴田正継)

「水のトーテム」先週末の公演、そして新ブッキング公演につきまして

「水のトーテム」、先週末も3つの刺激的な公演が行なわれました。

金曜、19日は秦真紀子+広沢純子公演
土曜、20日は川津望+坂本美蘭公演
日曜、21日は宮保恵+andré van rensburg公演

上記3公演に関しましては近日中に報告記事をアップ予定です。どうぞお楽しみにお待ち下さい!

そして25日(木)に、急遽

今井蒼泉+罪/つくよみ+川津望+塚本よしつぐ

という何か過剰なものを孕んでいるであろう公演がブッキングされました!
開演20時より。是非目撃しにお越しください!

12~14日公演ご報告、そして19日公演のお知らせ

昨日今日とバタバタと「速報じゃないよそれ」というペースでの公演ご報告となりました。サイト管理人は海外出張中なのですが、国境を超えたら突然サイトにアクセスできなくなるトラブルが発生したせいです。電子データに国境はないとか嘘ですね! (国外からのアクセスを弾く設定を変更してもらったおかげで今は無事更新できます)

というわけで、更新が滞っている間も着々と公演は行なわれていました。

12日は町田藻映子氏を迎えて
13日は山田花乃氏を迎えて
14日は生野毅氏を迎えて

各公演についてはそれぞれご報告を当サイト内に掲載しています。

そして明日1月19日は広沢純子+秦真紀子を迎えてのパフォーマンス。この日は音楽とダンスがともに水のトーテムの世界に立ち現れます。20時~。入場料2000円。是非ぜひお越しくださいませ。

「水のトーテム」14日 生野毅公演ご報告

(撮影:天沼春樹)

14日の公演に迎えられたパフォーマンスは朗読・声の生野毅氏。水のトーテムのもたらす空間の中にちりばめられた本、言葉の塊。そしてそれを読みいだし場に与える声。公演の模様を川津望氏はこう伝えます。空間に生じた”揺れ”の共有のよすがとして。

「しばらくしてその女の子の首は楽になりました。私はそれを待っていたのです。そして今度は滑稽な作り顔をして見せました。そして段々それをひどく歪めてゆきました。
「おじいちゃん」女の子がとうとう物を云いました。私の顔を見ながらです。「これどこの人」「それゃあよそのおっちゃん」振向きもせず相変らずせっせと老人はその児を洗っていました。(※1)」

生野毅の声帯をわたしは見ることができない。息がとおると確かにふるえる、おののきそのものはいつも気配だ。W・H・ホジスン「闇の声」は「魂の内と外に、目に見えない漣ーさざなみーが立つ……(※2)」、私とも他者とももはや呼ばれないものの間にある敷居の物語といえるだろう。敷居はまたがれることなく、漣と漣は分かたれたまま、ふっとひいて二度とまじわることはない。生野の声は一文字一文字に黙とうを捧げる色を含んで、耳へ寄せて来た。たとえばテーブルの上のランプ、海岸線に打ち上げられた死後の生、まだ息をしているものなど。さまざまの漣が同じ空間を装いながら砕かれずにあり、生野の声が大きく、また小さくなる。漣の外に波の音、生野のその声帯が見えないことこそ怪異だとわたしは感じた。
子どもにとっては特に、花を藤と名指すまで、遊べはしても世界を共にできない呪があるらしい。「闇の声」で生野はただ一度共有する告白があっても、名指されないこと、世界を共にできない怪異の切なさを、全身で引き受けたと思う。声の調子には時に独特のユーモアが滲み、いつしかわたしの感覚も子どもに戻っていた。生野の語りから透かして見える空間は、ここがどこであるかという問いを無効にしてしまう。OHPによる塚本よしつぐのパフォーマンスも生野の指摘にあったように、ロールシャッハテストのような様相を持ち、眠れない幼少期の夜に布団から見あげる木目の役割を果たしていた。
休憩をはさみ、生野の語る水にまつわるものごと、哀悼から切り離せない、隠されてなお憶えていること、忘れるのでなく、今の問題となすことは、漣からあらわれた貌、その切実な願いの投擲だった。顔の表情や身ぶり、関係性を問わず限られた語彙に侵食されつつある現在に、生野のつくった波紋は、見えることなくふるえる生そのものが、名指しえない、息のとおる道であると知らせてくれた。

(※1)「橡の花ーー或る私信ーー」梶井基次郎(http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/431_43526.html)

(※2)生野毅の言葉より

(撮影:いずれも天沼春樹)

「水のトーテム」13日 山田花乃公演ご報告

(撮影:川上直行)

13日はパフォーマーとして山田花乃氏を迎えての公演。愛と、そして未来と過去双方へ延びる記憶を思わせる時間となった模様。以下、本企画総合ディレクターたる塚本氏による報告。

寛容さと愛を実践して生きてゆきたいのです。水のトーテムの奥深くまで降りて行こう。山田花乃さんとの公演はまさに、寛容さ、そして愛が全てでした。

現時点の、永遠の山田花乃。

愛は時間軸を持って語れるものではありません。時を簡単に超えて行きますので、出来事は10年前のことも10年、20年先も簡単に飛び越えて来ます。ですから、ここで書かれるレヴューも公演もそうであったように、一続きの、一息の塊です。「愛に溢れていた」その一言であり、同時に30年先の山田花乃の踊りも含まれているのです。

一期一会の踊りに始まりがあるとするならば、world’s end girlfriendの耽美とともに始まり、終わりがあるとすれば、 Spiral Lifeの甘美とともに終わりました。la! neu ?の”Goldregen”というアルバムから抜き取られた曲が挿入されましたが、無音も含め全ては一つの塊でした。同時に、それらは直線に並んだ時間ではない「永遠」でした。

耽美なメロウと暗闇を纏い、大きなガーベラを車で曳きながら現れた黒服金髪の山田花乃は未だ無名の女であり、喪に服すように静かに虚ろに歩む。表情は泣くでもなく、弔うでもなく、空を食べるように息をする。または名前を思い出そうとしていたのかも知れない。目を合わさずにいたガーベラが大きな存在感だけを持つことに気づき、内心驚く。または、始まりはまだガーベラが山田花乃であったのかも知れない。ガーベラに顔を埋め、無名の女は金髪を無造作に脱ぎ捨て「山田」を取り返す。
彼女が舞台上で2回「山田の早着替え」を行い、花弁がはらはらと解けていくように、または、掴みかけた手を放つようにするりと離れていく姿は、事実「山田」が想像していたこととは別の方法で着替え損ねるのも「愛」でした。

ピンクのワンピースを纏ったのはまぎれもない山田花乃であり、彼女の色彩に少しずつトーテムが馴染んで行く頃、彼女は野原に出会う蜜蜂の群れであり、群れからはぐれ、海に出てしまう1匹でもありました。
ガーベラの茎をオールに見立て海原を彷徨い、足を痛めた母を思い出し、杖をつく。(そう、思い出すと、彼女と初めて会った時、彼女は大層に骨折して松葉杖をついて現れたのでした。あの時は上半身だけで踊ってくれたのですね。2005年、あの時の花乃ちゃんも居たのかも知れませんね。)

中盤の山田花乃の踊りはエネルギーに満ち溢れます。運動、純粋なその熱は一体何処に行くのでしょうか?彼女の体から生成される息遣いは彼女の摂取したエネルギーを表現の愛に満たし永久に灯す。夢中で飛び跳ねるダンスは永久機関でした。
それでも尚「あれ、、あれ、、」と漏れる言葉は彼女の踊りの引き出しを開け、探し回って、全てひっくり返して見つけたその踊りは20年先30年先または10年前、20年前に踊られたダンスであり、ここで一期一会で初めて生まれた表現への福音です。

既に表現の愛を知る私たちは、2度目の「山田の早着替え」がいつかスルスルと服がはだけ永遠が生まれ変わり続けることをも容易に想像しうるし、現時点の山田花乃と20年先の一期一会を、今この目の前に焼き付けることができるのです。

最後はトーテムの中の水玉を仰ぎ、煌めきの中で降り注ぐ水玉の光に満たし、トーテムの中に身を寄せて終わります。その唯一決められたシーンに向けて、時間は先へ先へと進んでしまうことを、儚くあるが、しかし、立ち会えた全ての人たちと、表現の愛を知る人、知ろうとする人たちは、そのことがいつでも目の前にある『永遠』だと知っているのです。また、何度でも出会いましょう。

永遠の山田花乃へ。

(撮影:ともに川上直行)

「水のトーテム」12日 町田藻映子公演ご報告

(撮影:月読彦)

もはや速報とも言い難い1月17日となってしまいましたが(サイト管理人が海外長期出張中のため、海外からのアクセス確立に時間がかかりました)、1月12日、町田藻映子氏を迎えてのコラボレーションが行われていました。どこかひそやかで懐かしく危うい、伝説のような寓話のような時間。

水のトーテムの作成者にして作品世界の管理人たる塚本氏による公演報告は以下の通り。

偶然にも、開始完全暗転したのち、屋根から雪が落ちるような大袈裟な音が響き、町田藻映子の公演は始まる。

公演開始直前まで塚本の青いトーテム弄りが視覚により崩れることを予期していたが、闇のうちに聴覚が結果を伝えたのだった。
一つの赤いトーテムを抱きしめた白装束かつ白塗り町田が客席からゆっくり現れ、しかし事実その大袈裟な音には聴こえなかったそうだ。照明が灯り目が慣れる頃には、青いトーテムが雪崩れた姿が露わになる。しかし町田は気に留めず、自己の内側を弄ぶように、赤いトーテムに執着している。いや、もともと青いトーテムなどどうでも良いのかも知れない。彼女の興味は光だったかも知れない。
やがて、踊りかどうか無分別の、幽かな精霊の童は弧を描く。

塚本が水面を映す頃、童は壁に映える水染を観やる。細かな打ち合わせはないものの、塚本が青いトーテムを建て直すこと、それを町田が邪魔することは決められていた。しかし、今はその時期ではない。関係性の問題だ。童が赤いトーテムを床に置く、その時までは一先ず待とうと決め込んで、塚本は無残な青いトーテムを放置しながら、一曲目Jim O’Rourkeを選び出す。
おもむろに客席に近づく町田は今まで我が身の如く弄んだ赤いトーテムを観者に託す。もう飽きたと言わんばかりに。
塚本は観者との関係性を作る必要に迫られた。偶然とは予期せぬこと、暗転からすでに始まっており、塚本は観者に橋を投げかける。しかし、観者との関わりは持てぬまま、結果、赤いトーテムを預かることになるのだが、この赤いトーテム、はて、どのようないきさつであったか?

もちろん、町田には選択する余地があった。赤いトーテムを持って現れるか、髪を結んで赤いゴム紐で結ぶかが青い世界に赤を纏う彼女の二択であり、しかし、彼女自身そこまで赤の意味に拘りがなかった。しかしながら、観者には赤子であり、月経であり、子供の頃に押し付けられた不幸の刻印であった赤は白塗りで乳白色になり、これも偶然にさらに幽けき美しさが強調されていた。

塚本が意を決して、赤いトーテムを青いトーテムに積む頃、鬼の形相で童はそれに突っ込む。崩し、また崩す。塚本は積む、また積む。繰り返すこと数分、ついに町田はそれとともに死んだ。観者からはそう見えたのは、塚本はその時、積むという動きのみに意味を持ち、町田は感情に揺さぶられていたはずだったから。感情のあるものは死ぬ、そして蘇る。(感情無き者は死なない、そして蘇らない。)

町田は子供の頃の感情に揺さぶられていた。それは開始前、白塗りをして浴槽室で待つ間、ずっと考えていたことだった。水のトーテムの空間に、懐かしい子供の頃を感じる、しかし、子供の頃はどうしてそんなにも、怯え、不安に晒されてなければならなかったのだろうか、と考えていた。渡された赤いトーテムを抱きながら、考えていた。もともと感情に流される踊りでなく、からだ自体や機能に踊りを見出していた町田は今日の始まりは感情を引きずって弧を描き、トーテムに突っ込んで死んだ。そして、蘇る。

立つこと。空をゆびをなぞる踊りが現れる頃、光の映像は油と青い水が揺れだす。立つことを見出した踊りは、丁寧に空間を作って行く。
Tim Hecker 、Fenneszとメロディアスなノイズが散りばめられ、束の間の舞台は終わりへと向かう。最後に、息を、その小さな小さな手の内に溜め、息を、やっと見つけた安らぎを大事そうに町田は塚本に渡す。水の光は落ち、舞台は終わる。

1/12 町田藻映子公演に寄せて。

(塚本よしつぐ)

(撮影:ともに月読彦)

 

8日公演速報、および明日12日公演ご案内

8日の日中をかけて行なわれた空間のしつらい、そしてそこで行なわれたパフォーマンスに関する少し遅めの速報(サイト管理スタッフが不覚にも寝込んだりしたためです、すみません)公開しました。

明日、1月12日は町田藻映子によるパフォーマンス。ウィークデー公演につき開始時間は20時〜となります。どうぞお間違いのないようお越しください。入場料は変わらず2000円です。

速報: 水のトーテム 山岡さ希子Sakiko 『Black Cosmos on the Palms』

(撮影:川津望)

「水のトーテム」8日に行なわれたのは、昨年は「12時間バターを見つめる」のパフォーマンスを行なった山岡さ希子氏によるワークショップとパフォーマンス。

以下、今年も山岡氏と共に1日を作り上げた塚本よしつぐ氏による報告。

★★★

山岡さ希子ワークショップ
〜静かに丁寧に〜

1.

水のトーテム自体をどこに置こうか。わたしはまず空間の中央よりをえらんだ。最終的には「手のひらの黒宇宙」をする際、養生のためのシートを引くのが決まっていて、それをどこに設置するかということを再検討した。真ん中にあると、ややまわりをくるくるまわるような一種の儀式的な様相を帯びてくる。
水のトーテム自体がパフォーマンスにとって、障害である。わたしは壁際に水のトーテムをコの字で寄せた。バリケードとして障害である水のトーテムで空間の入り口付近をふさぐと、この空間に入ること自体が、水のトーテムの中に入るひとつのアクションであり、空間全体がトーテムになるのではないか。
一度バリケードをめぐらせた。そうすることで参加せざるを得ない状況、観客もどう水のトーテムに入るのか、入らないのか、選択することを余儀なくされる。

われわれはお客さんが来たときに「どうぞ(welcome)」としかいいようがない。
その前にイエスとしか言わないという案もあったが、バリケードに否定的な態度、すなわちこれは「入れないのですか」という問いに対してもイエスとしか言えないことは不本意である。よって、われわれは「どうぞ(welcome)」と言う境地に達した。

2.空気の彫刻についての提案

わたしは最初山岡が空気の彫刻と言ったときに、何か気功のような行為をふたりでおこなうのかと思っていた。実際には、このバリケードを作ることが空気の彫刻を作ることであった。
その後、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻という概念とはどう関係があるのか、それについて話し合った。
われわれのおこないたいパフォーマンスは、正義の問題とは異なり、迷う、戸惑うということを敢えて観客に起こさせることも許容である。その考えに至った。

3.「手のひらの黒宇宙」の進め方について

音を聴いている態度が重要であり、音が飽和したらとめることを心がける。たとえば振動、音、空気、墨のにおい。
作品を共におこなうことが目的であり、同じ動きをすることではない。目的が一緒であれば、ちがうやりかたでおこなうという結論にいたった。

なお、月読彦は南極の氷を割るようにあしうらを小刻みに引きずりながらバリケードからトーテムへ入った。

報告:塚本よしつぐ

★★★

そしてこうやって準備された空間に対する応答のひとつとして、川津望氏は以下のように感想を寄せています。

ー水のトーテムで作られたバリケードの中にはもてなしのととのいがあった。わたしは公演の際体調が悪く、トーテムバリケードの外で公演の静謐な音に耳を傾けていた。壁に寄りかかり、目をとじて塚本氏と山岡氏のパフォーマンスを体感した。想起するよりひかりに近いはやさで、おのおのの手のひらへ触れてゆく一瞬の彫刻。脳が選んで運んできてくれる墨の香りや墨をする音、何かをめくる音が塚本氏から発せられたものとも山岡氏からのものともわたしは見ることができないのだが、すぐそこで鼓動しているあたたかな身体、仕草を感じた。どのような身体状況にあってもその時その時の参加の仕方を示してくれる「welcome」で満たされた空間だった(川津望)

写真も同じく川津望。当日撮影した“水のトーテムの中にある夕暮れ”とのこと。

 

「水のトーテム」1月7日公演速報、そして8日公演のご案内

1月5日より公開されている「水のトーテム」、本日の公演は「眠れぬ夜のメタファー 万城目純+貝ヶ石奈美in水のトーテム」でした。別エントリにて.kitenスタッフ川津望による鑑賞速報を掲載しています。

こちらは公演前のオフショット。

日々積み上げられる水のトーテム。撮影はいずれも川津望。

明日、1月8日は、山岡さ希子Sakiko『手のひらの黒宇宙Black Cosmos on the Palms』Performanceです。入場料2,000円は通常通りですが、いつもの土日より1時間早い18:00の開演となりますので、お間違いのないようお越しください。