「水のトーテム」14日 生野毅公演ご報告

(撮影:天沼春樹)

14日の公演に迎えられたパフォーマンスは朗読・声の生野毅氏。水のトーテムのもたらす空間の中にちりばめられた本、言葉の塊。そしてそれを読みいだし場に与える声。公演の模様を川津望氏はこう伝えます。空間に生じた”揺れ”の共有のよすがとして。

「しばらくしてその女の子の首は楽になりました。私はそれを待っていたのです。そして今度は滑稽な作り顔をして見せました。そして段々それをひどく歪めてゆきました。
「おじいちゃん」女の子がとうとう物を云いました。私の顔を見ながらです。「これどこの人」「それゃあよそのおっちゃん」振向きもせず相変らずせっせと老人はその児を洗っていました。(※1)」

生野毅の声帯をわたしは見ることができない。息がとおると確かにふるえる、おののきそのものはいつも気配だ。W・H・ホジスン「闇の声」は「魂の内と外に、目に見えない漣ーさざなみーが立つ……(※2)」、私とも他者とももはや呼ばれないものの間にある敷居の物語といえるだろう。敷居はまたがれることなく、漣と漣は分かたれたまま、ふっとひいて二度とまじわることはない。生野の声は一文字一文字に黙とうを捧げる色を含んで、耳へ寄せて来た。たとえばテーブルの上のランプ、海岸線に打ち上げられた死後の生、まだ息をしているものなど。さまざまの漣が同じ空間を装いながら砕かれずにあり、生野の声が大きく、また小さくなる。漣の外に波の音、生野のその声帯が見えないことこそ怪異だとわたしは感じた。
子どもにとっては特に、花を藤と名指すまで、遊べはしても世界を共にできない呪があるらしい。「闇の声」で生野はただ一度共有する告白があっても、名指されないこと、世界を共にできない怪異の切なさを、全身で引き受けたと思う。声の調子には時に独特のユーモアが滲み、いつしかわたしの感覚も子どもに戻っていた。生野の語りから透かして見える空間は、ここがどこであるかという問いを無効にしてしまう。OHPによる塚本よしつぐのパフォーマンスも生野の指摘にあったように、ロールシャッハテストのような様相を持ち、眠れない幼少期の夜に布団から見あげる木目の役割を果たしていた。
休憩をはさみ、生野の語る水にまつわるものごと、哀悼から切り離せない、隠されてなお憶えていること、忘れるのでなく、今の問題となすことは、漣からあらわれた貌、その切実な願いの投擲だった。顔の表情や身ぶり、関係性を問わず限られた語彙に侵食されつつある現在に、生野のつくった波紋は、見えることなくふるえる生そのものが、名指しえない、息のとおる道であると知らせてくれた。

(※1)「橡の花ーー或る私信ーー」梶井基次郎(http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/431_43526.html)

(※2)生野毅の言葉より

(撮影:いずれも天沼春樹)

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