11月25日(日)《プロジェクトなづき『液晶線』》公演評(評:北里義之)

11月25日(土)東陽町.kitenにて、プロジェクト<なづき>の第2回公演『液晶線』を観劇。川津 望さんの詩集『ミュート・ディスタンス』(2018年11月、七月堂)を月読彦さんが脚本化、別に宮沢賢治のテクストも引用しながら作られた朗読劇。基本コンセプトは、「ある困っている男1(今井歴矢)がいて、その困っている男を困った奴だと罵る男2(山田 零)がいる、その二人が液晶線という電車に乗って、死んだ娘ナミ(貝ヶ石奈美)とその娘と瓜二つと思えるような女性(川津 望)をめぐって会話しながら、どこかへ行く話」とのことで、その他の登場人物には、液晶線のなかで出会う不思議な男(上野憲治)や、コロス役を兼任するミュージシャンの園 丁(鍵盤、オーボエ/コロス1)、山崎慎一郎(ギター/コロス2)のおふたりがいます。音楽家は作曲/演奏するだけ、ダンサーは踊るだけでなく、朗読劇の声の提供者にもなります。タイトルの「液晶線」は、劇中の台詞によると「まわる。まわっても、むかっても、やがてはもどる」山手線のような電車のことで、出演者たちは、「シュー」「カター」という走行音をさかんに発したり、「行く」「戻る」「帰る」といった時間性を剥奪された定形詞(辞書のなかの言葉)を折りこんだ台詞で対話したりしながら、どこに着くのかわからない迷宮のような、あるいは最初から目的地にいるような液晶線をたどっていくという物語でした。コロスの役割が演奏家にあてられていますが、実際には、全員がヴォイスをするときに立ちあがってくる声の集団性こそがコロスになっていました。その一方で、個人詩集である『ミュート・ディスタンス』を複数の声へと(解体/再構築するというより)撒種する月読彦さんの脚本は、言葉が本来的に持っているポリフォニー性を聴き手にはっきりと感覚できるようにしたもので、出演者たちは言葉が撒種されていく先の土地(液晶線の到着駅であり、あえてデリダを引用していうなら誤配された郵便の受取手というべきもの)となり、意味を失って発声される出演者のヴォイスは、コロスというひとつのもの、すなわち同じ液晶線をたどってつねにすでに回帰してくる土地になるという存在の重層性をふたつながらに持っているようでした。すべてはあらかじめ語られていて、「液晶線」こそは「なづき」の別名ではなかったでしょうか。■




(撮影:赤羽卓美)

 

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