【横滑ナナ@東陽町.kiten「水のある光景」展】承前。「水のある光景」を企画された奥野博さんは、水のインスタレーション展に身体を招く意図を、「水は身体では制御できない。そこに詩的イメージが溢れだすはずだ。因果律では思考は停滞する。ランダムにことが起こる過程に身体を浸すのだ。水自体の夢想が目の前に現れるはずだ」と記し、より具体的に「物質(リアルな水)と壁面や天井に展示した、表象たる絵画やモビール(水をイメージさせた作品)の中に身体をどうさし込ませるのか」と企画意図を語られています。身体は表象であり、同時に物質であることで、ある結節点をもたらすものと考えられているわけです。
一方で、個人的な話になりますが、私の演劇の原体験には太田省吾さんの作品群があり、『水の休日』(1987年11月初演)などでは、舞台全面に1センチ5ミリ程の水が敷き詰められ、そのうえでパフォーマンスが進行するという、今回とよく似たシチュエーションの反演劇を経験しています。太田さんは、私たちが無意識にドラマを求めてしまうという演劇の制度性から身体を解放するため、ここで奥野さんがいう「制御不能の物質」を、ドラマに「単調」で「退屈」なだけの無数の穴を開けるため導入したと語られています。どちらにおいても水はよく似た働きをしている(期待されている)ように思われます。
さらに身体の側に立てば、身体が物質であることを踊るというのは、ダンスのなかでも特に舞踏の課題として知られるものですが、この共通の課題に、さまざまな人がさまざまに取り組むことになるという意味で、これから本展を訪れる身体表現者たちの挑戦が、いったいどのような帰結を生み出すことになるのか楽しみです。■
7月28日(木)東陽町.kiten「水のある光景」展での日替わりパフォーマンス第12回、横滑ナナさんのソロ舞踏を観劇。開演がいつもの時間から遅く設定され、日没から一時間後、すっかり暗くなった夜の時間帯、暗転後の屋内では、周囲の団地からやってくるかすかな光にぼんやりと照らされた窓が唯一の光源。屋外のベランダに影がうごめき、静かにサッシ窓が開くと踊り手が滑りこんできました。薄手のフレアスカート、袖や襟に折り返しの飾りがついた茶系の上着、左足だけに黒いストッキングをはき、うしろでまとめた髪に赤いリボンと花をあしらうといういでたち、顔を白塗りにして目のうえに赤い紅をはいていらっしゃいました。水槽の周囲をめぐり、上手の奥から水へと侵入していき、水の中心で踊り納めるという流れは、狭い屋内を水槽が占領する展示構造の必然なのでしょう、入水する場所までが博美さんとおなじ動線をたどりましたが、水のなかでくるくると円舞曲を舞ったあと、ザ・ピーナッツのヒット曲をバックに立て膝になったあたりでねっとりとした舞踏に急変、水面に手のひらを乗せ、左足の黒いストッキングを右足にはきかえるなど、横滑さんにとって水のある光景は、身体に光を着飾るための水舞台といった様相を呈していました。相良ゆみさんが担当した照明は、水の動きを光の動きへと転換して、美しい風景を描き出したと思います。