7月30日はダンスとポエトリー・リーディングの夕べ

7月最後の日曜日は、風月純史氏による企画

Lonely Woman〜〜オーネット・コールマンに捧ぐ夕べ

が開催されます。

オーネットの名曲にして傑作曲である「ロンリー・ウーマン」(アルバム『ジャズ 来たるべきもの』に収録)にインスパイアーされてできたポエトリーをリィディングします。
またこの企画は、再度の来日を果たせないまま一昨年亡くなったオーネット・コールマンを追悼し、リスペクトするイベントでもあります。

企画及びお囃子方:浅原ガンジー(as)
コンテンポラリー・ダンス:実験躰ムダイ
ポエトリー・リィディング:フーゲツのJUN
会場アートデコ:月読彦
2017年7月30日(日)19:00〜
入場料金:2,000円
公演後自由参加形式で打ち上げ交流会もあります(お一人様1,000円)。
ふるってご参加のほどお願い申し上げます!

「クラウド・チキン」、まだまだ続きます

現在開催中の「クラウド・チキン」ですが、古沢コラボレーションシリーズの予定されていた3回を終えました。
そしてこのたび、古沢氏と、当サイトスタッフブログにて当該シリーズに関する総評を執筆した詩人/パフォーマーの川津望氏とのコラボレーションが新たに企画されています。是非お越しください。

8月12日 川津望+古沢健太郎

他者のなか鳴り響く自分の音~古沢コラボレーションシリーズを終えて~(川津望)

.kitenにおいて7月11日からの毎週火曜日、音楽家古沢健太郎と踊り手による「クラウド・チキン 古沢コラボレーションシリーズⅠ~Ⅲ」が開催された。

はじめに古沢健太郎の音楽に関して私が覚えるところを少し。アンビエント、ノイズ、ドローンそしてフィールドレコーディングなど駆使し、音の出自を限界まで消し去る作風で楽曲制作に打ち込む。古沢にとって音と音は縦や横で結びつけられた関係ではない。つまり西洋音楽的法は持たないということだ。音は音楽家にとって傷/エクリールである。一方、既に起ったもの……編集可能な過去の痕跡としての音でなく、その動きつづける状態や身ぶりを古沢はいつも担って来た。

シリーズⅠで古沢は罪/つくよみというひとつの世界と出遭った。月読彦によるインスタレーション「クラウド・チキン」が輝きまたうす闇へ沈むはじめの10分間、踊り手は椅子に座ったまま微動だにしなかった。音楽家の即興は「動かない舞踏」と対照的な空間を探ろうとしていた。音響と古沢の視線の行方を追うかぎり、彼からは内的な激しい矛盾とたたかっている印象が見受けられた。古沢の準備、調整した音がどのようにさし宛てられても、罪/つくよみの上体はやや前へ傾いたままジョン・ケージの《4’33”》の譜面上の記号のように音楽家自身をも巻き込み、空間が舞踏家の舞踏と音楽になっていた。

18日、シリーズⅡで古沢の抱えた矛盾は新しい動きをはらみ、音楽に新鮮な空気を通わせた。シリーズの自己紹介文として踊り手、栗山美ゆきが引用したテキストは谷川俊太郎の「はだか」(『はだか 谷川俊太郎詩集』より 著者:谷川俊太郎 絵:佐野洋子 p.19~p.21 筑摩書房) だ。自分以外だれもいない「るすばん(※1)」と仮定した空間で踊り手は、まるで使いはじめて間もないからだの緊張を「じめんにかじりつ(※2)」くような体躯の粘りであらわした。彼女の注射器へ溜まってゆく血に見惚れる快楽にも似た表現上の好奇心、自身の身ぶりに時としてそむく踊りの陰翳、それは古沢のふくよかな無音によって水を得た魚のような動きへと変化した。栗山の緩急ととのえられた運動の機微も手伝い「クラウド・チキン」が蛇の抜け殻にも見えてくる瞬間があった。

表現者が他の世界と出遭う時、アイデンティティを無数に持つ/どこにも持たない存在の無意味なることにこそ表現による抵抗の力は宿る。25日、シリーズⅢで、日本画家でもある町田藻映子はまず古沢のパフォーマンスがなされる卓へ花瓶などに活けたカスミソウを置いた。私は照明の切りかえによる影の変容にも注目した。月読彦が照明の光を「クラウド・チキン」から音響機材の並ぶテーブルへ移すと、舞台正面に映し出された花の影と横に伸びてゆく踊り手の身体へ観客のまなざしは集まった。「クラウド・チキン」よりも明らかに儚い町田のインスタレーションの軸となるカスミソウ。その属名“Gypsophila”(ギプソフィラ)がギリシア語の“gypsos”(石膏)と“philios”(愛する)を語源とするところや、「幸福」という花言葉にも、美術家としての町田の見立てが息づいていた。今まで他者との出遭いを音楽活動の血肉にして来た古沢。シリーズ後半、順次進行を使うことで抒情性が空間へと吹き込まれた。また肌をしろく塗った踊り手の息遣いが音楽家の旋律的な音の運びに呼応していた。ステージの中央で町田によって引きちぎられた「クラウド・キチン」の一部、それは重力の垂直な力動を思い出させた。

これまで古沢の音は、無記名の揺れとして「わたしは音ではない」とさえ主張しているように感じられた。勿論、その方向性も重要である。「一つの音が響く時ほかの音は黙る」とは古沢本人のことばだが、今回三名の踊り手との邂逅によって他者のなかで鳴り響く自分の音の存在を認識したのではないか。三つのコラボレーションで誰よりも他者の音、生きている音に耳を澄ませた古沢健太郎。恐らく現在、古沢は傷/エクリールとしての音、他者の世界では自分が世界のひとつの可能性として耳を傾けられていることも踏まえ、次の準備に取りかかっているにちがいない。

 

(※1) 谷川俊太郎 「はだか」より

(※2) 谷川俊太郎 「はだか」より

 

編者註:なお、本記事の執筆者である川津望は、8月12日に古沢健太郎とのコラボレーションが予定されている。

 

朝読書会、月一度開催中

4月より、月に1度、土曜日の朝に朝読書会を開催しています。

3回にわたって読んだジャン・ジュネのシリーズを終え、7月はロートレアモンを読みます。

7月29日 ロートレアモン『マルドロールの歌』

10時開始。9時45分開場

参加費 千円 お茶とお菓子つき

作品について語ったり、朗読したり、
作品をモチーフに別の作品を披露したり。
パフォーマンスも可。

企画イベントシリーズ「クラウド・チキン」開催中

2017年5月4日より、企画イベント「クラウド・チキン」開催中です。

※今後の出演者

7月11日 古沢健太郎+罪/つくよみ

7月16日 尾身美苗

7月18日 古沢健太郎+栗山美ゆき

7月25日 古沢健太郎+町田藻映子

 

〈コンセプト:アートスペース.kitenより〉

古代、鶏は神とともにあった。光と真実と復活のシンボルであり、覚醒、勇気も意味していた。太陽を告げるように鳴き、王冠をいただき、また色彩豊かな姿が愛でられた。それが鶏を特別な存在、神の使いにしていったのだ。しかも恐竜の末裔でもある。幾つかの塩基配列がティラノサウルス・レックスと重複しているのだという。
現在、鶏は常時2百億羽以上存在している。それは猫と犬と豚と牛を合計しても及ばない。しかも大半が食鶏、鶏卵のためのニワトリだ。なぜ神の使いであった鶏が産業用の動物に成り果ててしまったのか。チキンが臆病者の代名詞となったのか。
鶏の原種は現在も東南アジアで生息している赤色野鶏(セキショクヤケイ)。ラテン語名は、鶏とも同じでガルス・ガルス。キジ目キジ科に分類される。非常に適応を持っている。それ故全世界に広がり、交配等により鑑賞鶏、闘鶏、食鶏等へと千変万化していった。多様化のきっかけはビクトリア女王へあるコーチン種が献上されたことにはじまる。やがてヨーロッパを熱狂の渦に巻き込み、鶏バブルが発生。新たな品種も続々と登場していった。改良技術は、アメリカにて頂点を極めた。それがブロイラーであり、卵を量産するレグホンだ。詳しくは記述しないが、その育成方法は悲惨さを極めている。なにかしら人類の今を象徴しているようでもあるというといいすぎだろうか。
今回のインスタレーションは、鶏に関係する素材を使っている。それを雲のようでもあり、竜のようにもとらえられるように形象を整えた。鶏に夢があるなら、羽ばたいてほしいという願いもこねながらだ。暁を告げる響きは聞こえるだろうか。
未来、人類が宇宙にでることがあれば、鶏はその同伴者となることも想定されているらしい。環境変化への対応能力が高いからだという。それが鶏にとって幸いかはわからない。そのときどんな姿に鶏は変貌するのか。。。

クラウド・チキン(2017年5月4日~8月12日)

5月4日 新生呉羽 やましん 罪/つくよみ
5月13日 yurina 罪/つくよみ
5月20日 木村由
5月28日 浅原ガンジー 柳原たつお 田中奈美
6月4日 坂本美蘭
6月8日 山田有浩
6月10日 万城目純 ホムンクルス 広岡愛
6月17日 トビハ
6月30日 阿坐弥 カワシマヨウコ 椎名利恵子
7月1日 有代麻里絵
7月11日 古沢健太郎+罪/つくよみ
7月18日 古沢健太郎+栗山美ゆき
7月23日 尾身美苗
7月25日 古沢健太郎+町田藻映子
8月12日 古沢健太郎+川津望

〈企画コンセプト〉

古代、鶏は神とともにあった。光と真実と復活のシンボルであり、覚醒、勇気も意味していた。太陽を告げるように鳴き、王冠をいただき、また色彩豊かな姿が愛でられた。それが鶏を特別な存在、神の使いにしていったのだ。しかも恐竜の末裔でもある。幾つかの塩基配列がティラノサウルス・レックスと重複しているのだという。
現在、鶏は常時2百億羽以上存在している。それは猫と犬と豚と牛を合計しても及ばない。しかも大半が食鶏、鶏卵のためのニワトリだ。なぜ神の使いであった鶏が産業用の動物に成り果ててしまったのか。チキンが臆病者の代名詞となったのか。
鶏の原種は現在も東南アジアで生息している赤色野鶏(セキショクヤケイ)。ラテン語名は、鶏とも同じでガルス・ガルス。キジ目キジ科に分類される。非常に適応を持っている。それ故全世界に広がり、交配等により鑑賞鶏、闘鶏、食鶏等へと千変万化していった。多様化のきっかけはビクトリア女王へあるコーチン種が献上されたことにはじまる。やがてヨーロッパを熱狂の渦に巻き込み、鶏バブルが発生。新たな品種も続々と登場していった。改良技術は、アメリカにて頂点を極めた。それがブロイラーであり、卵を量産するレグホンだ。詳しくは記述しないが、その育成方法は悲惨さを極めている。なにかしら人類の今を象徴しているようでもあるというといいすぎだろうか。
今回のインスタレーションは、鶏に関係する素材を使っている。それを雲のようでもあり、竜のようにもとらえられるように形象を整えた。鶏に夢があるなら、羽ばたいてほしいという願いもこねながらだ。暁を告げる響きは聞こえるだろうか。
未来、人類が宇宙にでることがあれば、鶏はその同伴者となることも想定されているらしい。環境変化への対応能力が高いからだという。それが鶏にとって幸いかはわからない。そのときどんな姿に鶏は変貌するのか。。。

速報:量産型美意識への反逆――トビハ「クラウド・チキン」(評:北里義之)

6月16日(日)東陽町.kitenで開催中の「クラウド・チキン」にて、トビハさんの『量産型美意識への反逆』を観劇。美術的なオブジェ製作と切り離すことのできないトビハさんのパフォーマンスは、ご自身の身体をまるごと美術化する行為としてあり、演劇、仮面劇、トラディショナルダンス、モダンダンス、コンテンポラリー、舞踏、ヨガ、ストリップ、美術パフォーマンスといった身体表現の要素を雑多に含みながら、しかもそのどれでもないというような不思議なありかたをしています。それはちょうど、ビョークの音楽が、世界中の音楽を次々にコンバインしていきながら、強力な声によってそれまでどんな音楽にもありえなかった要素の組合せを、声が出現するほんのひとときだけ必然的なものとしてあらしめるという感じと似ています。この晩のセッションは、大小の鏡をたくみにさばきながら踊ったり、場面ごとに衣装を脱いでいった先で、暗闇のなか、上半身裸になり、電球を仕込んだオブジェを抱えて踊るという構成に、「量産型美意識」が鏡に映る観客の問題でもあることを暗示しつつ、エネルギー体としての身体が(はるか彼方から)訪れる予感を次第に高めていくパフォーマンスだったと思います。卵パックのテーマを「消費生活」としてではなく「量産型美意識」ととらえたのがユニークでした。写真は最後の暗闇のダンスから。■

(なお、本投稿は速報であり、今後正規のレポートを受領し次第差し替えもしくは新規掲載いたします:サイト管理人)

即興演奏するダンス──木村 由「クラウド・チキン」(評: 北里義之)

即興演奏するダンス──木村 由@クラウド・チキン

北里義之(観劇日:2017年5月20日)

アートスペース.kitenの公演において、美術家の個展&パフォーマンスという形をとるのではなく、主宰者の奥野博自身がインスタレーションを構想するときは、天板のないテーブルを利用したり、買い物レシートの束を吊り下げたりと、私たちの消費生活から生み出される廃物を再利用してジャンクアートが製作される。今回の「クラウド・チキン」では、卵の透明プラスチックケースをもみくしゃにした素材が利用された。そうしたことは中古レコードや中古CD、古本となったグラビア雑誌でも可能で、それぞれに消耗品としての音楽、消耗品としての写真のありようを告発する製作行為ともなるが、奥野の場合、作品の素材は、消費生活と密着した場所にあって「買わない」という選択ができないものに限定されている。つまり、卵を買わない選択はできるが、透明ケースを買わないでいることは、よほどの主義主張がなくては可能にならないだろう。今回のインスタレーションでは、古来より尊重されてきたニワトリを工業製品化した、現代の食物産業の非人間的なありようにも触れられている。幼い頃、縁日で買い求めた原色のヒヨコが育ってしまい、毎朝の食卓に卵を供給してもらっていた経験のある私には、この生きものとの家族ぐるみの暮らしを通して、そのことの意味がよく理解できる。

 

この日のゲスト・パフォーマーとなったダンスの木村由は、インスタレーションとは別に食材として使用した卵の殻を用意、床のうえにランダムに配置して踊った。卵の殻は、ダンサーの踊りとともにグシャリと音をたてて潰されていくのだが、展示テーマにかけた趣向というだけでなく、殻を真上から潰したときの音から脇に蹴り出すような荒々しい動きをともなう音へと、潰されかたに音楽的な響きの変化をともなう流れが生み出されていたようだった。日頃から即興演奏家たちとのセッションを重ねている踊り手のセンスというべきだろう。それも闇雲に殻を潰してまわるのではなく、おおよそステージ・センターを占める卵の殻の領域に、その周辺にある踊りの領域から出入りして行為を重ねていくこところに、音楽的リズム感が生まれていた。殻を踏み潰すとき、踊り手は怒りや悲しみのような特別な感情をもつことなく、まるでそこになんの感情もないかのようにしてそれをする。それは他でもない、卵の殻が潰れる音を純粋なサウンドとして立ちあがらせるためである。多くの場合、立ったり床にすわったりするダンサーから見あげられるだけだったインスタレーションの廃物は、例外的に彼女の手で触れられ、パリパリと乾いた音を立てることもあった。卵の殻を抜け出るこのタイミングにも、絶妙の音楽センスが感じとれた。身体を精密にコントロールする運動センスを駆使して、木村由は即興演奏するダンスをしている。

 

「クラウド・チキン」の枠をはずすと、過去の.kitenパフォーマンス・シリーズに登場した踊り手たちのなかには、たとえば、会場をピノキオの物語が展開する壮大な幻想空間に変えた石和田尚子(2016年11月18日「木の人」、天板のないテーブル)、天井から吊り下るレシートの房を桜の花に見立てて踊った亞弥(2017年3月30日「レシートの森の満開の下」、無意識の断層)、歩行する身体とともに少しずつ空間を切り開いていった横滑ナナ(2017年4月2日、無意識の断層)というように、ダンサーによって、さまざまな場所へのアプローチが試みられてきた。その多くは、「見立て」によってジャンクアートに別のイメージを付与するもので、踊り手の身体は、そのようなイマジネーションを可能にするパフォーマンスを展開する。この意味でいうなら、木村由の場合、物語を用意するのでもなく、卵のパックを別のものに見立てるのでもなく、身体以前には空白状態の空間を切り開いていくのでもなく、この場所は一種の楽器としてあらわれたように思われる。卵の殻が踏みつぶされた公演の後半では、音楽の領域と動きの領域とをオーバラップするような踊りが踊られていった。このありようは現在の彼女の立ち位置そのままなのだろう。木村由の踊りは、即興演奏に触れることによって、実に雄弁にみずからを語りつくそうとする芸術になったといえる。

(2017年5月27日 記)