11月のイベント開催予定

11月のイベント、続々と開催が決定しております。

まず、11月3日(金祝)は読書会
今回もブルーノ・シュルツが題材です。11時~、参加費2000円。

同11月3日夕刻には浅原Gandhi氏の演奏、秦真紀子氏のダンスによる
ブエノスアイレスの場末にて
開場18:30、開演19:00、入場料2000円。終演後参加費1000円にて懇親会あります。

11月10日~12日の3日間は先日もご紹介した、
.kitenスタッフでもある川津望氏プロデュースによる3日間連続公演、
メゾンit
詩と音楽と舞踊のコラボレーションとなります。

続いて11月25日にはリュウセイオー龍氏による「跳舞の空間.kiten版」。
ハンガリアンミュージックを踊る、と題されています。

そして11月26日、詩と朗読、踊り、フルート、コントラバスによるコラボレーション、「蒙昧衆

いずれも刺激的な時間となりそうです。
是非ぜひお越しください。

 

週末は.kitenでサンバ!

10月14日、インスタレーションとのコラボレーションシリーズ「窓枠越しの風景」にて、サンバダンサー佐久間佳子氏と散歩が趣味のダンサー万城目純氏によるコラボレーションが上演されます。

窓枠越しの風景 ~佐久間佳子+万城目純

日時
10月14日
開場 18時半
開演 19時
入場料
2000円
出演
佐久間佳子
(サンバダンサー)

万城目純
(散歩が趣味のダンサー)

私、やめるわ!!
舞姫
そぅ、言い残し
彼女は出て行っちゃいました

そうして
散歩だけが趣味の
旦那は
家に引きこもるが、、、

終演後打上げ交流会。参加任意。
参加費千円(予定)

インスタレーション
今井蒼泉/龍生派

ということで、是非お越しくださいませ。

「窓枠越しの風景」展開中

現在進行中のシリーズ企画、「窓枠越しの風景」に、あらたに

10月28日 19:00~ 山田裕子(ダンス)+源一郎(ピアノ)

がブッキングされました。

また、今週末はダンスの田中奈美とチェロの入間川正美によるパフォーマンスが行なわれます。

ー狂気をはらんだ演奏にどうダンサーは迫っていくのか。しなやかな踊りに演奏家はどうからんでいくのか。楽しみな宴となりましょう(月読彦)

とのこと。みなさまどうぞお越しください。

なお、「窓枠越しの風景」現時点での上演情報はこちらです。

近況。

すみません、サイト編集担当者の多忙とPC不調につき、しばらく更新滞りました。
秋分を過ぎ月があらたまり、すっかり涼やかになった空気と共にどうやら復活です。

.kitenでは現在、インスタレーションとのコラボレーション企画「窓枠越しの風景」が展開中。これまでに

町田藻映子(舞踏)+柳静(音楽)     (9月2日)
罪/つくよみ(舞踏)+柳静(音楽)    (9月9日)
宮保恵(ダンス)+本田ヨシ子(ボイス)  (9月18日)
岡野愛(身体+言葉)+古沢健太郎(音楽) (9月19日)
友以(ダンス)              (9月28日)
山田花乃(ダンス)            (9月29日)
なごしいずみ(舞踏)           (9月30日)
セッション大会              (10月1日)

が上演されています。

また、シリーズ企画公演以外にも、

やってきたシリーズvol.3  Guillermoがやって来た! (9月6日)
浅原Gandhi+実験躰ムダイ        (9月13日)
StringraphyLabo/鈴木モモ ~滴る音の庭~(9月15日)
細川麻実子 2days ~沓~         (9月24日~25日)

が上演されており、アートスペース.kitenからは(サイトが沈黙中も)絶えず発信が行なわれておりました。

もちろん、1ヶ月に1度、土曜朝の朝読書会も健在です。今回は9月23日にブルーノ・シュルツを題材として開催されました。なお、今後は土日のいずれかに時間を朝に限定しない“週末読書会”として開催を続けます。より充実した定期イベントとなってゆきますので、こちらも是非ぜひご参加下さい。

今後は「窓枠越しの光景」が連続して展開していきます。

10月8日 19:00~ 田中奈美(ダンス)+入間川正美(チェロ)
10月14日 19:00~ 佐久間佳子+万城目純
10月22日 19:00~ 若尾伊佐子(ダンス)
10月29日 19:00~ 坂本美蘭

そして来月になりますが

11月10日~12日には当サイトの執筆スタッフでもある川津望のプロデュースによる3日間連続公演、メゾンitが開催されます。

詳細はまた順次掲載予定。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

コラ神話照明係からの報告 ―「~邂逅~坂入ヤスヒロ+月読彦」雑感(川津望)

撮影:阿坐弥

8月26日(土)、アートスペース.kitenには二つの白熱する世界があった。その一方へ赤い銅の螺旋を巻きつけて太陽とする代わりに、楽器の平たいブリッジにはド、レ、ミ、ファ、と左右に27本の弦が張られていた。坂入ヤスヒロが両の親指で紡ぐ伴奏、両のひとさし指でつま弾く旋律は、今井蒼泉のインスタレーション「窓枠越しの風景」の浮かぶ空間に、典雅な音色を巡らせた。もう一方の世界には竹ひごが活けられ月は沈み、太陽の万能を砕き、その破片はどんぐりとして床に転がった。月読彦がどんぐりを月に落とす。実の落下を受けて楽器の音には新たな関節が生じ、それらははじめてリズムの束縛から放たれた。私は咄嗟に坂入にあたる照明を赤くした。ドゴン族の月経期間の女性のように舞台から離れて。金狼の姿をした不完全で無秩序な反逆者ユルグが、大地と交わる。緑の毛をまとい、植物の未来を予言するという精霊ノンモが大地に与えた衣をユルグが月経の血で染め上げる。思い出すのはその衣を手に入れれば大きな力が授けられるという逸話。本来ならば白い引き戸のそばで、坂入は真紅の時間そのものとなりキゼ・ウジに七度目の振動を齎したかに見えたのだった(編註1)。

月読彦さんが竹ひごをマルにする音、ススキの穂が風になびいているような……自分のCDの中にある曲を想起しました。交流会でインスタレーションを眺めながら坂入はうれしそうに話した。彼が演奏した楽器、コラは西アフリカが発祥のリュート型撥弦楽器。大型のヒョウタンを半分に割ったものがボディとなり、断面には牛の皮が張られる。ボディの中央には長いネックが一本通され、両脇には握り棒が二本、これがブリッジを支えるのだ。坂入のコラは彼のハンドメイド。お手製のコラのネックがS字に細かく波打っているのは、本来の楽器の弦の数を27弦に変更したことで、その弦の張力によってネックが折れないように工夫した為だ。作るのに半年はかかりますね。トラディショナルはひと月。節が変なところに入っているとすればそのネックは使えない、はじめからやり直しですね。コラに関心を抱いた観客に対してアンコールとレクチャーもまじえながら、坂入は熱心に楽器の魅力をメロディーに乗せた。マンディンカ初代の王の子孫とも言われる口承伝承の伝承者グリオと、耕作地を求め、創造神の妻としての姿を大地に取り戻すべく、縄梯子の必要な山肌でも畑仕事するドゴン族の情熱が、坂入ヤスヒロからは感じられた。

グリオ一族の歴史について少し触れる。《NE DANKO;NGA SOMANO》「自身の時代の終了を告げると共に、彼が王座にいた間、マンディンカ帝国の領域はよく統治された」……初代マンディンカ王が王座を退く際、残した言葉とされる。この言葉を受けて王の子ども達はDANKOとSOMANOと名乗るようになり、マンディンカ最初のグリオが誕生した(編註2・在マリ大使館員によるレポート。PDFファイルにリンクしている)。坂入の奏でる音には作曲者らしく管理された楽曲構造、旋法への肯定感が色濃く出ている。一方、製図化されていない、自分の中に埋まっている音楽を探したい、とも話す彼の鋭い目にはどことなく大地との交わりによって言葉を得たユルグのそれが重なる。

月読彦が壺に活けられた竹ひごを引き抜き、竹ひごで空間に散らばるあらゆる竹ひごを叩き、また壺へと戻す。舞踏家はその身体によって、まるで坂入ヤスヒロのコラ奏者としての引き裂かれた面を可視化したようだった。しかし、坂入のコラはどこまでも太陽であり、彼の音には風に乾かす蝶の翅の鮮やかさが備わっている。インスタレーションとして置かれた壺にあたって弾け飛ぶどんぐりと、コラのボディの色は母子のように似ていた。私は今回、アートスペース.kitenコラ神話照明係として、太陽と月の邂逅を見届けることができたと思う。

セネガル、ギニア等と国境を接する内陸国、マリ共和国には多くの民族、言語、社会が集まる。図書館や学校の存在が一般的となった現代のアフリカにおいても、特に西アフリカではグリオは常に重要な存在だ。結婚や、神聖な文化行事などには欠かせない職業音楽家、グリオ。スンジャタ・ケイタ王の時代にその文化が花開き、マンディンカ王国を制圧した大戦中には密使であると同時に当時の王達の助言役であるなど、王に近い存在だった彼らは今もなお畏敬の念を持たれ、コラの甘美な音を響かせながら歴史上の英雄譚、各家の系譜など人々に変わらず伝えている(編註3-13-2)。

ギニアの山地から北東に流れてマリ共和国に入り、マリ領の中部をほぼ東西に貫流するニジェール川(編註4)流域のバンディアガラの断崖において農耕を営むドゴン族。その独自の文化においてグリオとは異なる歴史を持ちながらも、彼らは彼らの神話を大切に守り、現在も生活している(編註5)。

編註:筆者・川津望氏より、坂入氏の演奏したアフリカの楽器コラとその背景を読み解くための資料として複数のサイトが提示された。それぞれ「編註」として文中よりリンクしておく。なお、コラについては以下に解説がある。

9月23日、土曜読書会の前に

毎月1回土曜日午前から開始される読書会、9月もブルーノ・シュルツを取り上げます。
.kitenスタッフ、川津氏によるCMをまずどうぞ。
そして当日朝はぜひ.kitenまでいらしてください。

9月23日土曜日、朝11時より。参加費2000円、お茶菓子つき。

 

9月6日、海外からの演者を迎えるシリーズ第3弾!

9月6日水曜日19時半開演、「やって来たシリーズvol.3」として、ロシア在住キューバ人パフォーマーを韓国から迎えての公演です!

https://www.facebook.com/events/203821896820550/

●出演
ギジェルモ ルイス オルタ / Guillermo Luis Horta Betancourt
https://www.facebook.com/guillermoluish
鶴山欣也 / Kinya “zulu” Tsuruyama
Asuka J
罪/つくよみ / tsumi/tsyukuyomi

●音楽
スコット・ジョーダン / Scott Jordan
ヒラシマ サトル/Satoru Hirashima
MORIO
Yamaguchi Shuhey
平田祐一/Yuichi Hirata

南国パワーと白塗り、多国文化が坩堝の中で。
さてさていかがなりますやら?

是非ぜひお越しくださいませ!

世界に関わる遅速を愛す―今井蒼泉「窓枠越しの風景」へのささやかな返歌として(川津望)

龍生派、今井蒼泉が作ったインスタレーション「窓枠越しの風景」には時間の遅速がある。根も葉もない流言がきっかけとなり交流の断たれることを避ける為、蕪村が樗良に申し送った句「二もとのむめに遅速を愛すかな」の遅速とは一見、異なるにしても、だ。伝統に基づく型を離れ、人という文字のかたちに重ねて組まれた竹ひごが「一角を磨滅して三角のうちに住む(※1)」空間。ここでいくつかの竹ひごの出会いは凧糸によってしっかりと結ばれた。パフォーマンス前日、設計図は木製のテーブルのうえ、セブンイレブン アサヒ クリアクーラーの青い缶を横に見て、床に寝転がる今井はアートスペース.kitenで瞑想していた。スピーカーからは「レッド・ツェッペリン Ⅳ」が鳴り響いた。80本あるらしい竹ひごの束が今回、今井の用いる「機の種」だ。徳島の宅急便、長いものが安く送れなくなったんですよ。よいこら、と起きあがり、ツェッペリンの「Ⅲ」でゆきましょう、アコースティックな音ではだめ、と言いながら彼は養生テープを手で裂きはじめた。はやくも今井は能でいうシテの語りを引き出す作業に取りかかったのである。

 

当日のパフォーマンス冒頭、今井は天井のフックによって揚がった「機」の端へ手をのばしながらも寸前のところで触れない、その身ぶりをくりかえした。物事が起こるきっかけに「亂」という漢字の持つ両義的な性格がぴたりとくっついている様を、彼は身体と物音で表現した。使いやすいことばはまず立たず、何も招くことはできない(※2)。「きのふの空の有り所」(※3)として揚げられた竹ひごの「貌」 は、「ひと枝、ひと茎の植物が持っている個性を捉えて活かしていく」龍生派の根底を成す文脈とたしかに呼応しながら、床で今井の足指によって一部折られ、その表情を変えた。今井は行為に成る以前の動きで人の時、つまり順行する時間をあらわしているように私には感じられた。

 

ガード付きの裸電球ってまだありますかね。あるじの月読彦に彼は悪戯っぽい表情でたずねた。インスタレーションのすき間からすき間へと踊りながら移動し、竹ひごのしなり具合を確かめ、時おり月読彦のはなしに声をあげて笑う彼は明日、本番を迎える。何か面白いはなしをして下さいよ。彼は手を動かしながら月読彦に話しかけた。そこであるじは何かを言ったようなのだが、私は覚えていない。やがて雨が降ってきた。雷の音があたりに轟いた。この天気が夜の8時まで続くらしいですね。一度天井へと吊り上げられた網目をなす竹ひごの一枚が落下し床へ叩きつけられた。彼は偶然拾った糸巻きを持ちあげ、握ったかと思うと、.kitenの壺に残りの竹ひごをいけはじめた。すすきのように自身の重さで波打つ機の穂。戸外の雷鳴はやまず今井やあるじは笑い、時に頷きあうのだが、彼らの声は私には全く聞こえなかった。屋外が静かになり、ようやくあるじに声をかけようと口を開いたのだが、なぜか名まえが出てこない。困っていると、うしろで今井蒼泉があるじの名まえを呼んだ。.kitenあるじ、月読彦は「はい」と答えた。

 

パフォーマンス前日は雷雨のせいもあってか、シテの過去へと引きずりこまれるような不思議な時間が流れていた。「世界の全てが自分の夢だったとしたら」今井蒼泉は.kitenサイトの作品ノートでそう記している。また「こもる」ということについて目を向けてみた、とも。昔、日本では贖罪の方法として「はらい(払い)」系に属するのと「こもり(籠り)」系に属するものがあった(※4)。「はらい」系の刑罰には『伊勢物語』の在原業平の東下り(※5)のように、確かな罰ではあるのだが、歌を詠み、恋までしてしまうような余白もあったのに対し、一方「こもり」は現代にも引き継がれる不自由な様相を呈している。だからこそ、今井蒼泉の「窓枠越しの風景」に見る現在には遅速があるのである。人の時間と植物の時間、ワキとシテの時間、そして「はらい」と「こもり」、梅に二木あれば、早咲きも遅咲きもある、その異なりこそいいのであって、遅速を愛す蕪村がおり、二つの時間を愛し、引き合わせる今井蒼泉がいるのである。役者の顔や面など「今は昔」として使い込まれてこそ、その構えは形づくられるように思う。今井が手がけたインスタレーションは、これから集う表現者がそれぞれ皺を刻んでゆく機会が得られるように、「六十年後の春(※6)」として若く、遊び心をもって.kitenに浮かんでいる。

 

(※1)夏目漱石『草枕』第3章より。

(※2)華道の起源は古代からのアニミズムの流れとして、植物を立てて神を招くという行為が考えられる。

(※3)与謝蕪村の句「凧巾きのふの空の有り所」より。

(※4)安田登著『異界を旅する能』(ちくま文庫)p.155~p159を参考とした。

(※5)『伊勢物語』の主人公である在原業平の「東下り」の漂泊が能『杜若』にも息づく。

(※6)永田耕衣の句「少年や六十年後の春の如し」より。

編註:なお、執筆者の川津氏より、理解の助けにと「華道」および今井氏の活動する流派である「龍生派」に関するWikipediaが提示されました。今回のインスタレーションおよびパフォーマンスの重要な背景と判断し、こちらでもご紹介いたします。

掲載写真は.kiten主宰、月読彦氏によるもの。活けられた花はインスタレーションには含まれず、ただ、ひとの気配のひとつとして氏により設置されたものです。