クラウド・チキン(2017年5月4日~8月12日)

5月4日 新生呉羽 やましん 罪/つくよみ
5月13日 yurina 罪/つくよみ
5月20日 木村由
5月28日 浅原ガンジー 柳原たつお 田中奈美
6月4日 坂本美蘭
6月8日 山田有浩
6月10日 万城目純 ホムンクルス 広岡愛
6月17日 トビハ
6月30日 阿坐弥 カワシマヨウコ 椎名利恵子
7月1日 有代麻里絵
7月11日 古沢健太郎+罪/つくよみ
7月18日 古沢健太郎+栗山美ゆき
7月23日 尾身美苗
7月25日 古沢健太郎+町田藻映子
8月12日 古沢健太郎+川津望

〈企画コンセプト〉

古代、鶏は神とともにあった。光と真実と復活のシンボルであり、覚醒、勇気も意味していた。太陽を告げるように鳴き、王冠をいただき、また色彩豊かな姿が愛でられた。それが鶏を特別な存在、神の使いにしていったのだ。しかも恐竜の末裔でもある。幾つかの塩基配列がティラノサウルス・レックスと重複しているのだという。
現在、鶏は常時2百億羽以上存在している。それは猫と犬と豚と牛を合計しても及ばない。しかも大半が食鶏、鶏卵のためのニワトリだ。なぜ神の使いであった鶏が産業用の動物に成り果ててしまったのか。チキンが臆病者の代名詞となったのか。
鶏の原種は現在も東南アジアで生息している赤色野鶏(セキショクヤケイ)。ラテン語名は、鶏とも同じでガルス・ガルス。キジ目キジ科に分類される。非常に適応を持っている。それ故全世界に広がり、交配等により鑑賞鶏、闘鶏、食鶏等へと千変万化していった。多様化のきっかけはビクトリア女王へあるコーチン種が献上されたことにはじまる。やがてヨーロッパを熱狂の渦に巻き込み、鶏バブルが発生。新たな品種も続々と登場していった。改良技術は、アメリカにて頂点を極めた。それがブロイラーであり、卵を量産するレグホンだ。詳しくは記述しないが、その育成方法は悲惨さを極めている。なにかしら人類の今を象徴しているようでもあるというといいすぎだろうか。
今回のインスタレーションは、鶏に関係する素材を使っている。それを雲のようでもあり、竜のようにもとらえられるように形象を整えた。鶏に夢があるなら、羽ばたいてほしいという願いもこねながらだ。暁を告げる響きは聞こえるだろうか。
未来、人類が宇宙にでることがあれば、鶏はその同伴者となることも想定されているらしい。環境変化への対応能力が高いからだという。それが鶏にとって幸いかはわからない。そのときどんな姿に鶏は変貌するのか。。。

速報:量産型美意識への反逆――トビハ「クラウド・チキン」(評:北里義之)

6月16日(日)東陽町.kitenで開催中の「クラウド・チキン」にて、トビハさんの『量産型美意識への反逆』を観劇。美術的なオブジェ製作と切り離すことのできないトビハさんのパフォーマンスは、ご自身の身体をまるごと美術化する行為としてあり、演劇、仮面劇、トラディショナルダンス、モダンダンス、コンテンポラリー、舞踏、ヨガ、ストリップ、美術パフォーマンスといった身体表現の要素を雑多に含みながら、しかもそのどれでもないというような不思議なありかたをしています。それはちょうど、ビョークの音楽が、世界中の音楽を次々にコンバインしていきながら、強力な声によってそれまでどんな音楽にもありえなかった要素の組合せを、声が出現するほんのひとときだけ必然的なものとしてあらしめるという感じと似ています。この晩のセッションは、大小の鏡をたくみにさばきながら踊ったり、場面ごとに衣装を脱いでいった先で、暗闇のなか、上半身裸になり、電球を仕込んだオブジェを抱えて踊るという構成に、「量産型美意識」が鏡に映る観客の問題でもあることを暗示しつつ、エネルギー体としての身体が(はるか彼方から)訪れる予感を次第に高めていくパフォーマンスだったと思います。卵パックのテーマを「消費生活」としてではなく「量産型美意識」ととらえたのがユニークでした。写真は最後の暗闇のダンスから。■

(なお、本投稿は速報であり、今後正規のレポートを受領し次第差し替えもしくは新規掲載いたします:サイト管理人)

即興演奏するダンス──木村 由「クラウド・チキン」(評: 北里義之)

即興演奏するダンス──木村 由@クラウド・チキン

北里義之(観劇日:2017年5月20日)

アートスペース.kitenの公演において、美術家の個展&パフォーマンスという形をとるのではなく、主宰者の奥野博自身がインスタレーションを構想するときは、天板のないテーブルを利用したり、買い物レシートの束を吊り下げたりと、私たちの消費生活から生み出される廃物を再利用してジャンクアートが製作される。今回の「クラウド・チキン」では、卵の透明プラスチックケースをもみくしゃにした素材が利用された。そうしたことは中古レコードや中古CD、古本となったグラビア雑誌でも可能で、それぞれに消耗品としての音楽、消耗品としての写真のありようを告発する製作行為ともなるが、奥野の場合、作品の素材は、消費生活と密着した場所にあって「買わない」という選択ができないものに限定されている。つまり、卵を買わない選択はできるが、透明ケースを買わないでいることは、よほどの主義主張がなくては可能にならないだろう。今回のインスタレーションでは、古来より尊重されてきたニワトリを工業製品化した、現代の食物産業の非人間的なありようにも触れられている。幼い頃、縁日で買い求めた原色のヒヨコが育ってしまい、毎朝の食卓に卵を供給してもらっていた経験のある私には、この生きものとの家族ぐるみの暮らしを通して、そのことの意味がよく理解できる。

 

この日のゲスト・パフォーマーとなったダンスの木村由は、インスタレーションとは別に食材として使用した卵の殻を用意、床のうえにランダムに配置して踊った。卵の殻は、ダンサーの踊りとともにグシャリと音をたてて潰されていくのだが、展示テーマにかけた趣向というだけでなく、殻を真上から潰したときの音から脇に蹴り出すような荒々しい動きをともなう音へと、潰されかたに音楽的な響きの変化をともなう流れが生み出されていたようだった。日頃から即興演奏家たちとのセッションを重ねている踊り手のセンスというべきだろう。それも闇雲に殻を潰してまわるのではなく、おおよそステージ・センターを占める卵の殻の領域に、その周辺にある踊りの領域から出入りして行為を重ねていくこところに、音楽的リズム感が生まれていた。殻を踏み潰すとき、踊り手は怒りや悲しみのような特別な感情をもつことなく、まるでそこになんの感情もないかのようにしてそれをする。それは他でもない、卵の殻が潰れる音を純粋なサウンドとして立ちあがらせるためである。多くの場合、立ったり床にすわったりするダンサーから見あげられるだけだったインスタレーションの廃物は、例外的に彼女の手で触れられ、パリパリと乾いた音を立てることもあった。卵の殻を抜け出るこのタイミングにも、絶妙の音楽センスが感じとれた。身体を精密にコントロールする運動センスを駆使して、木村由は即興演奏するダンスをしている。

 

「クラウド・チキン」の枠をはずすと、過去の.kitenパフォーマンス・シリーズに登場した踊り手たちのなかには、たとえば、会場をピノキオの物語が展開する壮大な幻想空間に変えた石和田尚子(2016年11月18日「木の人」、天板のないテーブル)、天井から吊り下るレシートの房を桜の花に見立てて踊った亞弥(2017年3月30日「レシートの森の満開の下」、無意識の断層)、歩行する身体とともに少しずつ空間を切り開いていった横滑ナナ(2017年4月2日、無意識の断層)というように、ダンサーによって、さまざまな場所へのアプローチが試みられてきた。その多くは、「見立て」によってジャンクアートに別のイメージを付与するもので、踊り手の身体は、そのようなイマジネーションを可能にするパフォーマンスを展開する。この意味でいうなら、木村由の場合、物語を用意するのでもなく、卵のパックを別のものに見立てるのでもなく、身体以前には空白状態の空間を切り開いていくのでもなく、この場所は一種の楽器としてあらわれたように思われる。卵の殻が踏みつぶされた公演の後半では、音楽の領域と動きの領域とをオーバラップするような踊りが踊られていった。このありようは現在の彼女の立ち位置そのままなのだろう。木村由の踊りは、即興演奏に触れることによって、実に雄弁にみずからを語りつくそうとする芸術になったといえる。

(2017年5月27日 記)

無意識の断層(2017年2月15日~4月9日)

2/15 オープニングパーティー
2/18 罪/つくよみ
3/3  深谷正子
3/4  浮世モード
3/11 田中奈美+ガンジー
3/12 南阿豆
3/20 フウゲツの純他
3/26 万城目純プロデュース
3/27 山田花乃
3/30 亜弥
4/1  榎木ふく
4/2  横滑ナナ
4/8  犬吠埼ヂル
4/9  阿久津智美
インスタレーション:月読彦
special thanks to nami tanaka

 

〈企画コンセプト〉

「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」というジャック・ラカンのテーゼがある。ランガージュ、つまり言語だが、ラカンがいうランガージュは他者が「私」について語った言葉たちという意味だ。噂やら自分に対しての指摘やらが「私」の無意識を構造化するってことだ。今回はこれ自体はさておき、勝手な解釈ではあるが、日々の経済活動自体も無意識構造の一断層を構成するのではないかと考えてみた。言語とは交換され、流通されるものであるならば、貨幣と商品の交換も何らかの形で無意識構造の中にある層をなして存在する。そんな仮説を立ててみた。真偽はさておき、ここから発想したのが、レシートを空間に浮遊させたインスタレーションである。そこに身体を配置、運動させる空間、隙間も用意した。無意識のアナロジーの中で身体はどんな様態をさらすのか、どんな輝きを放つのか。「私」は身体をどう操作するのか。いや無意識は「私」をどう動かしていくのか。それらはすべて幻想かもしれない。そして、ならばパフォーマーの幻想を観客はどう受けとっていくのか。。。

『絵のない部屋/波打際』(塚本佳紹氏委嘱企画)(2017年1月3日~15日)

2017年最初の企画は、塚本佳紹氏に全面的にお任せした。
哲学にも造詣が深いアーティストだ。
.kiten空間は日々変貌を遂げるらしい。
そのなかで名うてのパフォーマーたちがどんな爪痕を残すのか?
楽しみだ。

◎インスタレーション&企画
キテンという住空間の延長にある特異なギャラリースペースをご存知の方は.kitenの新たな側面を、ご存知ない方は未知なる体験として、『絵のない部屋 / 波打際』展をご高覧下さいましたら幸いです。(塚本談)

◯プロフィール

塚本佳紹(つかもとよしつぐ)
1977年東京生まれ。
2005年セツモードセミナー卒業。
平面絵画の領域から、即興映像表現へと興味は広がり、現在は「観ること」を通じて発見される美意識をテーマに作品を制作している。2010年『愛と表面張力』展、2013年『家事が美術』展、2015年『小鳥が集う』展を開催。また、神道伊勢太神楽教団にて獅子舞の興行巡礼を経験したことから、美術と宗教に造詣を深める。2017年1月に行われる展覧会『絵のない部屋 / 波打際』では、日常生活にあるものをなるべく未加工なまま、そのものの在り様から「観ること」を通じて美意識の気づきが立ち現れる現場を作りたい。


1/3-5 公開制作(入場無料)
14時~20時

★★
1/6-15ギャラリーは14時から17時頃まで無料で空いております。イベントの準備のため、入場を制限する場合がございます。ご了承ください。
各イベントは以下の通りです。
イベントチャージは2000円です。

終演後打ち上げ
参加費千円カンパ(参加は任意です)

○○○●○○○●○○○

1/6 (金)19時頃から即興イベント
(舞踏駅伝への助走)
1/7(土) 8時から20時
山岡さ希子12時間
パフォーマンス
1/8 (日)19時から
久世龍五郎 ソロダンス
1/9 (祝)19時頃
ひらのあきひろ
能登谷浩一 DUO
1/10 (火)20時から
なごしいずみ ソロダンス
1/11 (水) 20時から
夜のデッサン会
成田護を描く!
1/12 (木)20時から
木村由 蜂谷真紀 DUO
1/13 (金) 20時から
塚本佳紹+宮保恵
1/14 (土)19時から
宮田徹也 講演
『批評について』
1/15 (日)19時から
若尾伊佐子 ソロダンス

炎の予感(2016年11月23日~12月30日)

舞台装置:和田真由子

11/23 水  罪/つくよみ
11/24 木 佐野友美
11/26 土 山田花乃
11/27 日 細田麻央
12/3 土 藤田恵理子
12/4 日 村田いづ実、冨岡千幸
12/10 土 本田舞
12/11 日 北山聖子
12/17 土 榎木ふく
12/18 日 岡佐和香
12/20 火 浮世モード
12/23 金 岡野愛
12/24 土  番外編・忘年会
12/25 日 坂田有妃子
12/28 水 トビハ
12/29 木 横滑ナナ
12/30 金 総打ち上げ/セッション大会

〈企画コンセプト〉

あの日、自宅周辺は計画停電エリアに指定された。
帰宅時、蝋燭を買う。
電気の光のない夜があっても悪くないと思うことにしたのだ。マッチも買った。
ある歌を思い出したからだ。
その一節は、「マッチ擦るつかのま」ってやつだ。
炎の光が揺れ震えて、空間はざわめき、時間はとぐろを描く。

やがて静寂。

窓の向こうに海もなく霧もない。闇が広がっている。悪意がかしこに蔓延っているのかもしれない。
揺らめいている光に、邪と願いとが同時に引き寄せられていた。
いのちのことを思っていた。

天板のないテーブル(2016年10月22日~11月20日)

10/22 山田裕子
10/23 罪/つくよみ
10/30 『358(さこうや)』
11/3 yurina
11/5 激団波平
11/6 浜田剛爾追悼
11/12 田中奈美+万城目純
11/13 岡佐和香+ホムンクルス
11/18 石和田尚子
11/19 浮世モード
11/20 総打ち上げセッション大会

〈企画コンセプト〉

朝起きて部屋を通り過ぎようとしたら、何かが通せんぼしていた。奇怪なモノが部屋の真ん中にあるのだ。目を凝らすと、両端にカタカナの「エ」の形の足のようなものがあって、その「エ」の中央同士を繋ぐ横棒がある。横棒がバランスを安定させ、そのもの自体が倒れないような構造になっている。わけが分からないくせに安定し過ぎて、得体がしれない。
一歩後ずさりした。ありえないモノがあるなんてきっとまだ寝ているのだ、
目をつぶってみる。
こんなのはほんとはないのだし、そんなもを見ている私がいるなんてこともほんとはないし、こんなことを考えているなんて実は幻なのだ。と呪文を唱えて目を開ける。
目の前にある奇怪なモノは微動だにせず、在る。隣部屋に行きたい。近づくのはやめておこう。なんだか不安に駆られる。迂回だ。
いや、待て。なぜ自分の行動を奇怪なモノのために変更しなければいけないのか。癪に障る。その上をハードル走よろしく跨いでいくべきなのだ。

結局遠回りした。言っておくが、臆病とは断じて違う。勇気と癪に障る気持ちと日常の安寧の三角関係を釣り合いのとれる形にしたまでだ。
隣の部屋からグラスと炭酸水を取り出して、椅子に座る。ふと意識が中空に浮く。これからどうすればいいのだ。いつもどこにグラスやボトルを置いていたのだろう。床? ばかな、そんな筈はない。置き場所がない。昨日までを思い起こそうとするが、わからない。まったくもって忘却だ。その部分だけが空白なのだ。それぞれの手にグラスとボトルをもって何もできない。間抜けだ。
少し離れて奇怪なモノが視界に入る。グラスとボトルを持ったまま触ってみる。・・・木の肌触り。よくみると木製だ。今まで気づかなかった。。。害は及ぼさないようだ。
何に使うものなのだろうと思う。見れば見るほど、無用だ。無駄な存在だ。自分にとってここに在る意味がない。
ふと思う。そう、これはアートなのだ! 現代アートなのだ。そうでなければこんな奇怪でないわけがない。
だが、もっと待て。このグラスと炭酸水のボトルをどうすればいのだ。両手がふさがった私は炭酸水が飲みたい。呑みたいのに飲めない。
ひとりで考えていると、ここはどこなのだろと訝しくなる。そして情けなくなって、途方に暮れる。自分には家族はいないのだろうかと思う。両親の記憶が欠落している。兄弟はいたのだろうか。姉は? 妹は?

なあ~んて戯文を書いてみた。
テーブルから天板が失われる。機能は失われ、フォルムも一変する。そうしてテーブルにまつわる物語や人までもが消失していく。用途のないただのモノがある空間でどうダンス、パフォーマンスを構築していくのか。

欠如を巡る思考実験が繰り広げられてもいい。
今回も解釈は自由だ。百花繚乱の夢想が、イメージの乱舞が.kitenで繰り広げられますよう。

生成/~になる(2016年9月10日~10月16日)

9/10 土 今井蒼泉
9/11 日 りょう(万城目純プロデュース)
9/17 土 ヤマシン+罪/つくよみ
9/19 祝 玉内集子
9/23 金 山田花乃
9/25 日 北山聖子
9/29 木 トビハ
9/30 金 岡佐和香
10/1 土 村田いづみ
10/2 日 岡野愛
10/3 月 月読彦
10/7 金 ノトヤ浩一
10/8 土 田中奈美
10/9 日 淳
10/10祝 南阿豆
10/16日  総打ち上げ(インプロ大会)

〈企画コンセプト〉

ものを制作する行為に3つのモデルがあります。
それぞれ植物的生成モデル、動物の生殖モデル、そして無からの創造モデル。
植物的生成モデルは種から発芽して花が咲いて枯れていくというものです。
古事記に「葦牙の萌え騰がるが如く成る」という一節があります。これこそ「~になる」という、生成モデルです。
ちなみに古代ギリシャ人の「パンタ・レイ/万物は流転する」も近い考えに「なりましょうか」。
舞踏が日本的なのはやはり「~なる」という表現スタイルを強く意識しているからなのかもしれません。
日常に目を移すと、たとえば「今日は練習の日になります」というような言い回しをわれわれはよく遣う。
「今日は練習の日です」より多く遣われているのではないでしょうか。

今回のお題「生成/~になる」では、インスタレーションを生け花作家、今井蒼泉氏に依頼しました。
「水のある光景」では自らインスタレーションを設え、パフォーマンスをしてもらったのも記憶に新しい。
お題の解釈は自由ですが、この蒼泉氏の空間でどんなパフォーマーに「なる」のかを期待していきたい。なぜパフォーマーなのかといったメタレベルも歓迎。
想像力の百花繚乱も今回もまた期待したい。

以下のふたつは「~になる」を考えるための比較として挙げておきます。
中国には、混沌が陰陽(男女/牡牝)に分離したあと「結合」によって万物は「生まれる」という盤古神話があります。これが動物の生殖モデルです
ちなみに古事記がイザナギとイザナミの交わりによって淡路島がうまれたという記述があるのは中国思想の影響です
最後に一神教文化圏では、全ては無から神が創造したという。これぞ制作行為モデル。神を至上とするように見えて、実は一番人間的です。植物や動物はなにかを「作る」という行為をしない。人間だけが制作行為をするのですから

水のある光景(2016年7月2日~8月28日)


◎展示
鬼頭明稚(絵画)
山田裕子(モビール)
万城目純(映像)
今井蒼泉(水槽インスタレーション)

2016/07/02 土 岡佐和香
2016/07/03 日 加藤道行
2016/07/08 金 山田花乃
2016/07/09 土 今井蒼泉
2016/07/10 日 相良ゆみ
2016/07/16 土 宮保恵
2016/07/17 日 北山聖子
2016/07/18 月 まりあんぬ五反田+罪/つくよみ
2016/07/22 金 トークショー
2016/07/23 土 武智博美
2016/07/24 日 藍木二朗
2016/07/28 木 横滑ナナ
2016/07/30 土 松本清和
2016/07/31 日 松本清和
2016/08/04 木 星野ことり
2016/08/05 金 若尾伊佐子
2016/08/06 土 犬吠埼ヂル
2016/08/08 月 罪/つくよみ
2016/08/11 木 吉福敦子×来島友幸
2016/08/12 金 犬飼美也妃
2016/08/13 土 浮世モード
2016/08/14 日 榎木ふく
2016/08/15 月 yurina
2016/08/19 金 関さなえ
2016/08/20 土 金景雲
2016/08/21 日 田辺知美
2016/08/24 水 滝野原南生
2016/08/26 金 岡佐和香
2016/08/27 土 奇天烈月光団
2016/08/28 日 深谷正子

〈企画コンセプト〉
人を構成する物質の大半は水だという。
ということは水と我々とはどの程度親和性があるのだろうか。絵画展示として 鬼頭 明稚氏の水面の表層を描いた具象とも抽象ともとらえられるタブローを、
また春開催の「ガーリー」展の 山田 裕子氏にモビール制作を依頼した。

2M四方の枠を設置し、シートで枠を覆ってプールを作った。深さは10センチ。水を張る。
設計・インスタレーションは 今井 蒼泉氏。
人工的ではあるが、それでも水は、瑞々しくも水である。
力を加えなければ、静謐そのもの、いや静謐それ自体といえよう。

パフォーマーが水槽に身体を踏み入れ、動き始める。
表層はうねり、響きをうみ、光は乱反射する。水は内部で撹乱し、様々に姿を変貌させる。
水が迫る力は思いの外強くなる。響きがリズムを刻み、水は生命を持ち始めたかのように動き始める。
動きが大きくなり、水はうねる。
敷居を越え、洪水となり、水のイメージも迸る。

水は身体では制御できない。
そこに詩的イメージが溢れだすはずだ。
因果律では思考は停滞する。
ランダムにことが起こる過程に身体を浸すのだ。

水自体の夢想が目の前に現れるはずだ。

万城目純・映画大活動祭《冒険とキセキ》(2016年5月21日~6月26日)

5/21 短編映像集上映+オープニング・パフォーマンス(清水友美・若尾伊佐子)
『Mongolian Paty』(1FF1997グランプリ)〔モンゴルの山羊・馬・駱駝〕『むなつき』(1FF1 2014)[ポーチン&清水友美] etc.
5/22 若尾伊佐子(ダンス)+『nul』
5/27 藤田ひとみ(パフォーマンス)+天野樹(フルート)+万城目純(パフォーマンス)
5/28 二川めぐみ(ダンス)+万城目(映像パフォーマンス)
『浮遊生活(ふゆういき)』 [コスタリカのジャングル ]
5/29 田村のん(舞踏)+『g-p.s.(楽園をみつめて、そして・・・)』[ガラパゴスのイグアナ・アシカ] +てづかのぶえ(唄とウクレレ)

6/4 罪/つくよみ(幕間:「水のある光景」へ向けて)

6/10 唯 玲(美術)+武藤容子(ダンス)
『Nyo Nyum』 [カンボジアの遺跡群]
6/11 激団波平+『ANALA』 [マダガスカルの原猿]7
6/12 村田いづ実+出演映像
6/17 万城目純(映像、トークショー)
6/18 ムダイ(実験舞踏)+ホムンクルス(古楽/オンドマルトノ、ハーディガーディ)
6/19 犬飼美也妃
6/24 山田花乃+『ティティ -光のムナモト- (TITI -HEART OF LIGHTNESS-)』 [2005年。南洋のバヌアツの火山と裸族を巡る旅]
6/25 坂上健(ダンス)+相良ゆみ(ダンス)+『UMINAMI YAMANAGI』(カムチャッカの火山と鳥だけが生息する無人島。うみひこ、やまひこを巡る自然の創世記]
6/26 細川麻実子+『タガ・クロス・イズ・アライブ』(ロタ島に眠る十字の魂と巨石文化。神は如何にしてここに降り立ち、見放したのか?IFF 20007)

万城目純映像作品とそれに登場したパフォーマーとの共演
自己が出演した映像にパフォーマーはどう挑むのか!
あるいは、見たこともない秘境の映像
静物や風景のダンスに
パフォーマーは出会い
何を表現するのだろうか?

◎万城目純
構成・演出家、振付家、ダンサー、パフォーマーで美術家と多面的な顔を持つ。
万城目純の映像作家としての作品を一挙公開!
映像作品は、80年代後半から“身体と社会”をテーマに、独自な身体/映像 理論に基づき多数制作している。
イメージフォーラム・フェスティバル1997一般公募部門大賞受賞後は、ロッテルダムやバンクーバー国際映画祭、ICAシネマテイク,MHKA美術館、などに招聘参加。
映像パフォーマンスとしてもダンス・舞踏や音楽をはじめとしてあらゆるジャンルのアーチストとコラボレーションを行い、ロンドン、イタリア、ドイツ等の国際フェス参加も多数。
現在、アート分野においても、特異的な存在として存在し、なお変貌とげる即興魔術師。その行為をとりあえず《冒険とキセキ》と名付けた。これは回顧ではない。軌跡をたどり、なお奇跡を求める、映像と身体の邂逅に立ち会おう