万城目純・映画大活動祭《冒険とキセキ》(2016年5月21日~6月26日)

5/21 短編映像集上映+オープニング・パフォーマンス(清水友美・若尾伊佐子)
『Mongolian Paty』(1FF1997グランプリ)〔モンゴルの山羊・馬・駱駝〕『むなつき』(1FF1 2014)[ポーチン&清水友美] etc.
5/22 若尾伊佐子(ダンス)+『nul』
5/27 藤田ひとみ(パフォーマンス)+天野樹(フルート)+万城目純(パフォーマンス)
5/28 二川めぐみ(ダンス)+万城目(映像パフォーマンス)
『浮遊生活(ふゆういき)』 [コスタリカのジャングル ]
5/29 田村のん(舞踏)+『g-p.s.(楽園をみつめて、そして・・・)』[ガラパゴスのイグアナ・アシカ] +てづかのぶえ(唄とウクレレ)

6/4 罪/つくよみ(幕間:「水のある光景」へ向けて)

6/10 唯 玲(美術)+武藤容子(ダンス)
『Nyo Nyum』 [カンボジアの遺跡群]
6/11 激団波平+『ANALA』 [マダガスカルの原猿]7
6/12 村田いづ実+出演映像
6/17 万城目純(映像、トークショー)
6/18 ムダイ(実験舞踏)+ホムンクルス(古楽/オンドマルトノ、ハーディガーディ)
6/19 犬飼美也妃
6/24 山田花乃+『ティティ -光のムナモト- (TITI -HEART OF LIGHTNESS-)』 [2005年。南洋のバヌアツの火山と裸族を巡る旅]
6/25 坂上健(ダンス)+相良ゆみ(ダンス)+『UMINAMI YAMANAGI』(カムチャッカの火山と鳥だけが生息する無人島。うみひこ、やまひこを巡る自然の創世記]
6/26 細川麻実子+『タガ・クロス・イズ・アライブ』(ロタ島に眠る十字の魂と巨石文化。神は如何にしてここに降り立ち、見放したのか?IFF 20007)

万城目純映像作品とそれに登場したパフォーマーとの共演
自己が出演した映像にパフォーマーはどう挑むのか!
あるいは、見たこともない秘境の映像
静物や風景のダンスに
パフォーマーは出会い
何を表現するのだろうか?

◎万城目純
構成・演出家、振付家、ダンサー、パフォーマーで美術家と多面的な顔を持つ。
万城目純の映像作家としての作品を一挙公開!
映像作品は、80年代後半から“身体と社会”をテーマに、独自な身体/映像 理論に基づき多数制作している。
イメージフォーラム・フェスティバル1997一般公募部門大賞受賞後は、ロッテルダムやバンクーバー国際映画祭、ICAシネマテイク,MHKA美術館、などに招聘参加。
映像パフォーマンスとしてもダンス・舞踏や音楽をはじめとしてあらゆるジャンルのアーチストとコラボレーションを行い、ロンドン、イタリア、ドイツ等の国際フェス参加も多数。
現在、アート分野においても、特異的な存在として存在し、なお変貌とげる即興魔術師。その行為をとりあえず《冒険とキセキ》と名付けた。これは回顧ではない。軌跡をたどり、なお奇跡を求める、映像と身体の邂逅に立ち会おう

山田裕子展 ガーリー(2016年4月17日~5月15日)

4/17 岡佐和香(オープニング公演)
その後オープニングパーティ
4/23 鼎談(座談会)
4/24 KYOUSUKE・滝野原南生・山田裕子
4/29 坂本美蘭
4/30 田辺知美
5/1  二川めぐみ
5/2  犬吠崎ヂル
5/3  武智圭佑
5/4  秦真紀子&江藤みどり
5/5  座談会
5/6  セッション大会(小森俊明、チャーリー加藤、
坂田洋一、万城目純、山田裕子)
5/7  久世龍五郎
5/8  笠原弓香
5/13 罪/つくよみ(20時開演。開場は30分前)
5/14 清水友美
5/15 永野沙紀

〈企画コンセプト〉

20世紀、日本の少女イメージは大きく変貌した。日本画や中原淳一の清楚な少女像から、漫画を震源地として、独特の進化を遂げていった。魔法使いサリーやリボンの騎士、吾妻ひでおの少女キャラクター、ラムちゃん等無数の少女像が量産されていった。20世紀末から21世紀にはいると会田誠のようなグロテスクなイメージやセーラムーンに代表されるような戦う美少女が誕生した。その変貌のエンジンはどこにあったのか。それは言わずと知れたカワイイという感覚にある。このカワイイ、意味論的には平安時代の「うつくし」まで遡れるという。今のカワイイと同じ意味で遣われていた。枕草子では、小さいもの、未熟なものを愛でる形容詞として遣われていた。(*1)
20世紀後半になり萌えやらグロカワやらキショカワやらキモカワなる派生語が生まれた。その母体は漫画、アニメを支持したオタクの感性だ。エロという観点で多様性にドライブをかけたともいえようか。そしてその感覚はサブカルからいわゆるファインアートにも影響を与えていき、メディアミックス的にイメージは多様化し、国際的にも波及していった。
さて最初に裕子さんにあったのは、4年前ダンスの相手を探している時だった。万城目純氏の企画で二人で踊らなければはらず、誰と踊ろうか、相手が見つからなかった時だ。万城目氏から「裕子さんってのがいるだけど、いんじゃない?」のひとことで決った。舞台はD-倉庫だった。なれないリフトなんかした作品になった。それから何度かダンスの場を一緒してきた。気づくと彼女の本業というか一番の専門の絵画を見ていなかった。イラストのような絵を描く作家だと勝手に思っていた。初めて実物に接したのは昨年だった。実際はみなさんにも是非見ていただきたいのだが、重層的な画面構造のある、不思議な魅力を放つ作品なのだ。描かれるのは一人の少女。画家本人を思わせる、美少女で、足が内向きでオタク好みな存在に一見仕上げられている。オタクの好みに媚びていそうで、豈図らんや見つめているとするっとすり抜けていくような感覚をもった。
説明は不要だ。直に見て、感じていただきたい。 今回もパフォーマとのコラボレーションを企図した。特に男性パフォーマーはなにをしてくれるのだろう。土方巽は映画『夏の嵐』であの風貌そのままで赤い着物で女装?して「少女」を踊った。
ガーリーな日々を楽しんでください。日本のカワイイ文化の可能性。あやうさ、あぶなさも感じ取っていただきたい。(奥野博)

(*1)今でいうカワイイに相当する言葉「うつくし」から「かわゆらし」(カワイイの直接的語源。最初は痛ましく見るに忍びないの意味のみ)に変わっていったのは中世末期。そして今に至る。

部屋と絵と行為『坂巻ルーム』(坂巻祐一氏委嘱企画)(2016年2月27日~4月10日)

坂巻裕一 美術家。制作主題は無意識・無対象。1978年茨城県水海道市生まれ 2003年多摩美術大学情報デザイン学科卒業。2011年個展「坂巻裕一 いのち」 2012年個展「坂巻裕一 景色」 2014年毎日書道展前衛部門佳作。

映像 チャーリー河村
写真 bozzo、macoto fukuda、笠原弓香
料理 青梅博子、富士栄秀也

●行為(パフォーマンス公演日程)
2/27土 南阿豆 舞踏
3/5土 清水友美 ダンス
3/11金 万城目純 ダンス
3/12土 阿坐弥 三味線
3/13日 梅澤妃美 ダンス
3/19土 岡佐和香 舞踏
3/20日 新井千賀子 ダンス
3/21月 中西昌大 ダンス
3/26土 浮世モード(やましん・秦真紀子・月読) ダンス・インスタレーション
3/27日 関谷泉 パフォーマンス
3/31木 玉内集子・三浦宏予 ダンス
4/2土 阿久津智美 ダンス
4/3日 山田零+タッタ 演劇
4/8金 村上理恵 ダンス
4/9土 小林嵯峨 舞踏
4/10日 深谷正子 ダンス

●坂巻裕一トークショー
3/4 空間・ロスコ・美術(仮題)
4/1 パフォーマンスとの融合(仮題)

●オープニングパーティ
初日2/27の南阿豆公演終演後料理アーティスト、青梅博子による、創作アートプレートが出現。正方形の器に坂巻絵画を反映した料理が盛られる。料理と絵画の饗宴!参加費無料。

〈企画コンセプト〉

3年前坂巻裕一はダンサーやボイスパフォーマーとコラボレーションしていた。巨大な紙に魄を切り刻むようにして墨を定着させ、森下スタジオの壁全面を覆った。それから交流が始まった。2015年10月にストライプハウスで開催の「HoneyCue&奇天烈月光団」というイベントにおいて、彩色作品に初めて接した。9枚の連作絵画「ハニー九」だ。あれから4ヶ月あまり、ここ.kitenに場所を移し、新たに10枚目として「ハニー十」を加え、10枚の絵画を展示。『坂巻ルーム』と命名して、総合企画化した。脳裏にはロスコ・ルームがあった。一人の作家だけで空間を構成するという類型さだけではなく、あの静謐な絵画群とは、一見真逆に、激しいイリュージョンを呈するのだが、なにか奥底に沈静なものを感じさせるという点に共通性を感じたからだ。ロスコのシーグラム壁画は幾層にも重ねられた絵具の深みが見るものを底知れぬイドの奥に誘っていく。一方坂巻のタッチはタブローを時に激しく、時にユーモラスに、時に撫でるかのように渾然と行き来するのだが、見ていると不思議に心が落ち着いていく。静かなカオスが立ち現れるのだ。イベントとして下記の日程のようにパフォーマーたちに出演を乞おた。坂巻を初めてのアーティストたちだ。激しい静謐さが流れる時間にどう身体が現れるか見てみたい。坂巻のテーマは無意識だという。唯識によると無意識の奥底にさらにアーラヤ識という時空を超越した集合的無意識があるという。パフォーマーの無意識はそこで坂巻の無意識と出会うだろう。観客を含む複数の人間が『坂巻ルーム』に会合したとき、意識されえぬ、共鳴の顕れも期待できるだろう。また終演後は宴会を企画している。ロスコの絵はレストランには飾られなかったが、この10枚の絵は食を彩る。どう酩酊できるか!

なお、写真家bozzo氏が「HoneyCue&奇天烈月光団」で撮影した82葉の「ハニー九」記録写真を画家自らが写真帖にまとめあげた。もちろん出品。かつてない幻像が出現するだろう。今からわくわくポンである。

 

 

まるで聾演劇のように──yurina「天板のないテーブル」5日目(評:北里義之)

まるで聾演劇のように──yurina「天板のないテーブル」5日目
(観劇日:2016年11月3日)

「坂巻ルーム」「水のある光景」「生成/~なる」など、東陽町のアートスペース.kitenで、今年にはいって進められてきたインスタレーション展示とコラボレーションの組合せは、10月22日(土)から11月20日(日)にわたって開催されるパフォーマンス・シリーズ「天板のないテーブル」に継続され、10組17人の出演者が、従来通り土日休日に公演をおこなうことを基本にしながら、期間中には、今年の6月9日に他界された浜田剛爾氏の追悼公演も特別にプログラムされている。タイトルの「天板のないテーブル」は、実際にスペースが所蔵し使用してきた家具のひとつで、不揃いな脚を持った今井蒼泉作の椅子と組み合わせるなどして、すべてのパフォーマンスの共通条件にしたものだ。今回初の試みとなったのは、与えられる条件の唐突ぶりを補うため、この家具にまつわる「戯文」が書かれたことである。ある朝目覚めるとベッドのなかで毒虫になっていたというカフカの短編『変身』にちなみ、日常性のただなかに出現した不条理な存在の物語が一人称でつづられている。「戯文」は無視することもできるが、5日目の公演に登場したyurinaは、彼女なりの潤色を加えながら、「戯文」が示す物語を忠実に再構成していく一人芝居をおこなうことで、「戯文」を戯曲として扱ったといえるだろう。

音楽がなく、言葉もなく、偶然にも、この晩は周囲の生活音も響いてこないひっそりとした環境で演じられたyurinaのパフォーマンスは、日常的な身ぶりだけでなく、脚がすっとあがったり、脇や後方に気持ちよく伸ばされたりするダンス的な動きをはさんで構成されていた。主婦らしい装いをした主人公のひとりごととして演じられていくすべては、まるで聾演劇を観るようだった。朝の目覚めから、天板のないテーブルへの接近と迂回、ペットボトルと紙コップを載らないテーブルに載せようとしてくりかえされる空しい行為、部屋の隅にすわり、すでに彼女を去った恋人(あるいは夫)からの電話を待つ様子、テーブルにつく見えない相手の姿にさしのばされる両手、いとしげになでられる椅子の背中や台座、何度となく床に落下するペットボトル、それらが日ごとのくりかえしとしてつづけられていく。誰もいない、もしかするとすでに廃屋になっているのかもしれないこの場所で、どうやらすこし精神に変調をきたしはじめている主人公は、幻想の繭のなかに閉じこめられて生活している。彼女の夢が覚めることは永遠にないかのようだ。

与えられたテーマを忠実になぞりながら、yurinaはそこに人の喪失を重ねあわせ、恋人の不在を受け入れることのできない主人公を演ずることで、天板のないテーブルを彼女自身として描きだした。ある日突然、自分を「毒虫」としか感じられなくなるカフカの物語は、天板のないテーブルを介して、恋人を失った主人公の自身(の身体)に対する異物感へとつながったのである。その一方で、ダンス的な手足の動きは、チェルフィッチュのように、こうした場面設定や演技の外部からやってくるものとしてあり、主人公の意志にかかわりなく勝手に動いてしまう別の生き物のようだった。くりかえされる日常の風景は、劇的瞬間の到来による終焉を期待させた。たとえば、気持ちよく伸びていくyurinaの手足が、天板のないテーブルをまたぎ越していき、彼女を包む幻想の繭をみしみしと踏みしだいていくような、質的な場面の転換を期待していたように思う。しかし彼女の行為はドラマ性を帯びることなく、yurinaの演技は、そのようにする身体の存在を最後まで許すことはなかった。

穴だらけの空間で──南阿豆「生成/〜になる」最終日(評:北里義之)

穴だらけの空間で──南阿豆「生成/〜になる」最終日
(観劇日:2016年10月10日)

スペースを主宰する奥野博が基本のアイディアを出し、前衛華道家の今井蒼泉が制作したインスタレーションを共通の条件にして、週末ごとに多彩なゲスト・パフォーマーによる日替わり公演がおこなわれるアートスペース.kitenの企画展は、水をテーマにした夏の「水のある光景」から、木をモチーフにしたオブジェが室内を浮遊する「生成/〜になる」へと移り、制作者である今井蒼泉のパフォーマンスを皮切りに、9月上旬から多彩なゲストを迎えて開催されてきた。水槽のなかにたゆたう手強い水の物質感にくらべると、まばらに設置された枯れ枝や細竿のオブジェ群は、「水のある光景」とは対照的に、殺風景なマンションの一室に、穴だらけの空間を分節するように思われた。行為者の立ち位置によって、内側と外側がたちまちに反転していく空間の性格は、アルトーの「器官なき身体」のようなもの、言い換えるなら、縦横無尽に気の通う空間を形作っていた。上手も下手もない、天井も床もない、観客席もホリゾントもない空間に、シリーズ最終ゲストの南阿豆は、モデラートを刻むメトロノームを手にして、暗転後の暗闇に外のベランダから滑りこんできた。

ここでのダンスは物語を描き出さない。踊り手自身の身体や、いくつかのオブジェを種にして、その周囲にひとつひとつ動きを発生させていくだけである。南が持ちこんだメトロノームは、時間を刻むことを目的とするものではなく、それが最初に置かれた場所を(方向性を喪失したこの空間では「仮の」というべき)ダンスの開始点とするものだった。メトロノームから遠ざかった先で、天井から垂直にさがるスポットが彼女をとらえる。見えない誰かから左手を後方にねじあげられるようにして、あるいはまばゆい光を両手でさえぎるようにしてくりかえされる身体の上下動。さらにその場所から後退していくと、その先では、天井からさがる電球を抱きかかえたり、ほおずりをしたり、頭上高く捧げあげたりしながら、壁に映る自身の巨大な影とダンスした。そのまま電球を手放すと、胎児の姿と、海老反りをくりかえして床上を転々としてから、頭上の光に手を伸ばし、電球の真下で反り身からゆっくりと上体を引き起こす。ひとつとして同じ動きがない。そのままうつぶせになると、まるでいきどころをなくしたように床のうえを這いまわり、壁まで移動すると石のように動かなくなった。

照明が電球の赤からスポットのブルーへと移り、パフォーマンスの後半がスタートする。後半では、床と天井を弓なりに結んで設置された何本もの細い竹竿が、前半では見られなかった大きな動きを発生させる装置となった。生き物のようにしなう竹竿が、ダンサーの足もとをすくう危うさを封じこめながら、その場で踊りの形を模索する一発勝負のダンスがつづく。前後半でのダイナミックな動きの変化は、彼女の舞踏作品でしばしば採用されるスタイルを反映したものともいえるだろう。踊りの終着地点は、空間のセンターに置かれた切り株を彷彿とさせる茶色い物体の入った円筒だった。動きのスピードを落とした南が、円筒の横に座り、祈るように前屈をくりかえすなかで暗転、身体は闇のなかに沈んでいった。そこで終幕かと思われたが、そのあとふたたび暗闇を歩きまわる足音が響き、黒い影になったダンサーは窓から退場していった。

本展の開始に先立つ企画説明のなかで、主宰者の奥野は3つの生成モデルを提示している。いわく、(1)種から発芽して花が咲いて枯れていくという植物生成モデル、(2)混沌が陰陽(男女/牡牝)に分離したあと「結合」によって万物が「生まれた」とする動物生成モデル、そして(3)神がすべてを創造したという無からの生成モデル。あるいは制作行為モデル。この図式にあてはめていうなら、南阿豆の舞踏は、奥野自身が示唆している(「舞踏が日本的なのはやはり『〜なる』という表現スタイルを強く意識しているからなのかもしれません」)ように、ひとつひとつのオブジェを種にダンスを発生させたという点で、植物生成モデルと呼べるだろう。それは混沌を殺すことなく、その都度異なる開始点と終止点を仮設し、いくつもの穴を吹きすぎていく風のようなものといえるだろう。後半に訪れた大きな動きを、演劇的クライマックスと受け取ることもできるが、おそらくそれは習慣づいた観客の眼にそのように見えるだけで、踊りはひとつの穴の周辺で、オブジェを種としながら発生したに過ぎなかったのである。

胎児のまどろみ、羊水としての水──田辺知美「水のある光景」(評:北里義之)

胎児のまどろみ、羊水としての水
──田辺知美「水のある光景」(観劇日=2016年8月21日)

「水のある光景」に迎えられた多彩なゲスト・パフォーマーのなかでも、田辺知美の舞踏は、場面転換がないという点でとりわけ特異なものだった。これはおそらく、長期間にわたる田辺の「金魚鉢」シリーズで私たちが見てきた、床のうえに寝た姿勢で展開される面的な踊りにも通じているだろう。田辺の踊りを見る私たちは、これまでダンスらしくない動きの日常性や、なにがしかの構成を読みとらせない動きの無目的さに視線が吸引されて、それが章立てのない一場面の踊りであることの重要性を、じゅうぶんに意識できていなかったかもしれない。

田辺のパフォーマンスは、水槽まわりでの踊りを捨てるところからはじまった。下手サイドに腰をおろし、おもむろに水槽への侵入を開始する踊り手。水槽の縁を越して両手を水につけ、指にからみつく草花をはらうようにしながら、腕を沈め、ほどいた黒髪の先を濡らし、ゆっくりと水のなかに左足を入れていく田辺。身体の方向を縦に、また横にと移しかえながら彼女がとった動線は、水のなかに座りつづけながら、反対側のコーナーまで水槽を対角線に横断していくというものだった。反対側のコーナーでは、水槽の縁に頭を乗せ、浮輪に乗って浮いているようなかっこうで全身を弛緩させ、しばし休息の体勢をとる。ふたたび元のコーナーに戻る途中、手にからみつく花や草を身体に乗せると、最後に、赤ん坊をいとしげに抱きかかえるように大輪のケシの花を胸元に掻き抱き、あっさりと立って踊りを納めた。普通ならクライマックスといえるようなこの動きのなかでも、場面は転換しない。

「水のある光景」において、水槽まわりの踊りを捨てたことには大きな意味がある。というのも、それが踊りにとって、水槽のフレームをそのまま(外部を持たない)世界の枠組にすることにつながるからだ。水面に浮かぶ色とりどりの草花は、偶然それに触れる踊り手の身体、あるいは動きそのものを細分化していくことになっていたが、それだけでなく、水槽に「無意識」や「池」のイメージを与えるような、ある深層構造をそなえた垂直の世界を幻想させるものにもなっていた。ここにはコンテや舞踏の別なく、場面の交代を描き出すあらゆる種類の踊りとはまったく別の世界が立ち現われている。おそらくそれは、視覚や聴覚が空間や時間を切り分ける以前にある(はずの)、私たちが盲者になり聾者になることで生きなおされる触覚的世界のようなものだろう。

深谷正子「水のある光景」(評:北里義之)

8月28日(日)、2カ月にわたったインスタレーション展「水のある光景」の最終ゲストは深谷正子だった。水槽の周囲の床にはたくさんの小さな鏡が立てかけられ、水槽の底に横たわる数枚は、天井に四角い光を反射している。水に濡れたティッシュの塊が水槽の縁にへばりつき、プラスチック製のつぶつぶ(籾殻のかわりに枕のなかに入っているクッション材)が床に散乱している。最終日、壁の絵や天井のモビールははずされていた。深谷が水のなかで踊るのは初めてのことだそうだ。ブラインドの外からやってくる薄明かりのなか、水槽のなかに立った人影が、バシャッ、バシャッと足で水を掻く場面からスタート。冒頭のこの場面は最後にリプリーズして、ダンスの枠構造をなした。

スティーヴ・レイシーらしきソプラノサックスが切り詰めたシングルラインのメロディーを描き出すなか、一歩、また一歩と、ゆっくりとした歩調で水槽の縁なりに歩く踊り手の動線は、2m四方という狭いスペースを、立ち位置の変化でさまざまに性格づけていくもので、既視感があった。中西レモンが主催していた畳半畳である。タイトル通り、畳半畳を踊り場として共通に課すそのシリーズで、畳を広く使うために、何人ものパフォーマーがていねいにその縁を歩くのを見ていたからだ。この動線のとりかたは、踊り手が、「水のある光景」を、まずは水槽の分割という空間性においてとらえたことをあかしていたように思う。

ゆっくりとした歩行で水槽を時計回りに一周する踊り手。水槽の角々で方向を変えるときに身体の表情を変え、違う方向から来る照明に質感を変えしながら、途中で水の底に沈んだ鏡(に映る自身の影)を踏む際にはあしらいをするなど、細かく変化する身体で序奏部を作っていった。出発点に戻ると、そこから水面に手を伸ばし、膝をつき、腰をおろし、うつ伏せになっていく入水の儀式がスタート。深谷にとっての水は、武智博美や田辺知美が描き出したような死のイメージに連結するより、バプテスマの水、生まれ変わる生命に触れるということのようであった。特に水の冷たさや水面に広がる波紋の動きと感応する身体のさまは、水槽の分割による正確な動きとは別に、彼女のダンスでは表立つことのない、遊戯的な動きを生み出していた。そこからは横寝して足をあげるなどいくつかの形をはさみつつ、水槽にすわって身体を回転させながら動き、再度立ちあがると、水槽を反時計回りに歩きはじめたものの(クリシェと感じたのか)それを中断し、水槽の中心あたりで、また水槽内をランダムに歩きながら、両腕や上半身の動きを使った踊りを展開していった。全体的には、立つ/座る/立つの三部からなるシンプルな構成のダンスだったと思う。■(2016年8月30日 記)

横滑ナナ「水のある光景」(評:北里義之)

【横滑ナナ@東陽町.kiten「水のある光景」展】承前。「水のある光景」を企画された奥野博さんは、水のインスタレーション展に身体を招く意図を、「水は身体では制御できない。そこに詩的イメージが溢れだすはずだ。因果律では思考は停滞する。ランダムにことが起こる過程に身体を浸すのだ。水自体の夢想が目の前に現れるはずだ」と記し、より具体的に「物質(リアルな水)と壁面や天井に展示した、表象たる絵画やモビール(水をイメージさせた作品)の中に身体をどうさし込ませるのか」と企画意図を語られています。身体は表象であり、同時に物質であることで、ある結節点をもたらすものと考えられているわけです。
一方で、個人的な話になりますが、私の演劇の原体験には太田省吾さんの作品群があり、『水の休日』(1987年11月初演)などでは、舞台全面に1センチ5ミリ程の水が敷き詰められ、そのうえでパフォーマンスが進行するという、今回とよく似たシチュエーションの反演劇を経験しています。太田さんは、私たちが無意識にドラマを求めてしまうという演劇の制度性から身体を解放するため、ここで奥野さんがいう「制御不能の物質」を、ドラマに「単調」で「退屈」なだけの無数の穴を開けるため導入したと語られています。どちらにおいても水はよく似た働きをしている(期待されている)ように思われます。
さらに身体の側に立てば、身体が物質であることを踊るというのは、ダンスのなかでも特に舞踏の課題として知られるものですが、この共通の課題に、さまざまな人がさまざまに取り組むことになるという意味で、これから本展を訪れる身体表現者たちの挑戦が、いったいどのような帰結を生み出すことになるのか楽しみです。■

7月28日(木)東陽町.kiten「水のある光景」展での日替わりパフォーマンス第12回、横滑ナナさんのソロ舞踏を観劇。開演がいつもの時間から遅く設定され、日没から一時間後、すっかり暗くなった夜の時間帯、暗転後の屋内では、周囲の団地からやってくるかすかな光にぼんやりと照らされた窓が唯一の光源。屋外のベランダに影がうごめき、静かにサッシ窓が開くと踊り手が滑りこんできました。薄手のフレアスカート、袖や襟に折り返しの飾りがついた茶系の上着、左足だけに黒いストッキングをはき、うしろでまとめた髪に赤いリボンと花をあしらうといういでたち、顔を白塗りにして目のうえに赤い紅をはいていらっしゃいました。水槽の周囲をめぐり、上手の奥から水へと侵入していき、水の中心で踊り納めるという流れは、狭い屋内を水槽が占領する展示構造の必然なのでしょう、入水する場所までが博美さんとおなじ動線をたどりましたが、水のなかでくるくると円舞曲を舞ったあと、ザ・ピーナッツのヒット曲をバックに立て膝になったあたりでねっとりとした舞踏に急変、水面に手のひらを乗せ、左足の黒いストッキングを右足にはきかえるなど、横滑さんにとって水のある光景は、身体に光を着飾るための水舞台といった様相を呈していました。相良ゆみさんが担当した照明は、水の動きを光の動きへと転換して、美しい風景を描き出したと思います。


武智博美「水のある光景」(評:北里義之)

7月2日(土)から8月28日(土)までの期間、東陽町.kitenで開かれているインスタレーション展「水のある光景」の会場で、土日を基本に、今井蒼泉さんが設計された2m四方の水槽を使い、水にちなんだパフォーマンスがリレー開催されています。7月23日(土)の第10回は舞踏の武智博美さんによる『水の胃袋』、エレクトロニクス演奏の武智圭佑さん(maguna-tech)や、この晩は即興ヴォイスをされたシンガー小平智恵さんとの共演でした。浅く水を張った水槽の正面、右端に置かれた丸椅子に、すでに開場時から背中向きで腰かけた博美さんは、わずかに上半身を傾けるなどしながら、水槽をとりまく観客の、そこだけ誰もいない上手奥のコーナーを見つめていました。白いブラウスにピンクのスカート、紺の靴下といういでたちをした踊り手の頭部は、目だけを残して包帯でぐるぐる巻きにされ、長い髪が包帯の下からはみ出ています。観客たちの会話がさざめき、BGMで賑やかなポピュラー音楽が流れるなか、湖畔の人岩のようになり、じっとエネルギーを溜めつづける様子。開演時間がきて暗転、上手床からくる照明を身体に受け、時計回りでゆっくりと背後を振り向く動きはじめが、すでに最初のクライマックスでした。

【武智博美『水の胃袋』@東陽町.kiten「水のある光景」】承前。「水のある光景」におけるパフォーマンスの存在は、身体表現というよりも、身体が関わることで水がどのような物質に(イメージ)転換していくかというところにポイントがあるようです。バシュラールの物質的想像力をヒントにした発想で、まさに身体を飲みこむ「水の胃袋」のようなもの。博美さんの舞踏では、開場時に彼女が見つめていた上手コーナーで包帯をほどき、スポットライトが水面を沼のように浮きあがらせるなか、正座して水面に身を乗り出し、片手で水に触れ、両手で水をすくいとりしながらおこなわれた水という物質への侵入/交感が決定的な転換点をなしました。しかしそれ以上にイマジナリーだったのは、水槽のなかでしだいに動きを少なくしていった身体がやがて静止し、天井を仰いでまっすぐに伸ばした手足のかすかな動きが、水に浮く女性の肢体を出現させた最後のクライマックスでした。といいますのも、水のなかの彼女の姿が、オフィーリア・コンプレックスと結びつく死のイメージを掻き立てたからです。溺死した乙女。頭部をぐるぐる巻きにした包帯が喚起する外傷性=悲劇性、薄暮のなかで青に染まり、永遠のやすらぎへと手招きする静かな水面などがイメージ連鎖して、一挙に意味を帯びはじめる幕切れだったと思います。