8月27日企画、出演者募集中です。

8月27日企画「解題朗読・震洋爆裂」につきまして、主催の川崎氏より出演者の募集が告知されています。

終戦の翌日に謎の命令によって出撃準備中、爆発事故にて111名の死者を出した第128震洋攻撃隊の死者と事故を解題朗読する。

読み上げる111名の墓碑銘と合わせていただく表現者(踊手・役者・音楽家・美術家・詩人等)募集中です。

くわしくはこちら

 

8月26日はコラと舞踏の上演

8月26日(土) 19:00~ コラ演奏家の坂入ヤスヒロを迎え、.kitenあるじの舞踏とのコラボレーションを上演いたします。

~邂逅~坂入ヤスヒロ+月読彦~

~ 邂逅 ~ 坂入ヤスヒロ+月読彦
2017.8.26 19h start  in .kiten

出演:坂入ヤスヒロ(コラ演奏)・月読彦(舞踏)

ここに、「いかに自分は『万能ではない』か?」「『個』の限界って何?」なんて思春期めいたことをつらつら考えてる男がいます。
だいぶ周回遅れの様相が濃く、「どのみち、私は音楽や何らかの自己表現から逃れることができない人間なんです」なんてのたまうことも。

・・・いやいやいやいや、違うんです。
私は単純に「やめられない」だけなんです、演奏することが。

違うだろう?
そもそも「やめる」とか「音を出さない」なんて思ったことがあるのか?
他者から散々投げつけられてきた言葉を自分の言葉と勘違いしていないか?

・・・そうでした。
いったい誰に気兼ねしているのか?
格好つけた言葉はいらない。
格好つけた態度もいらない。

服を脱ぎ去るがごとく、己に張り付いた無数の「格好」を取り払った先で、何が聴こえるのか?
何が見えるのか?
そして、どういう音を奏でるのか。

そんなやりとりから生まれたこの企画、.kiten当主の月読彦氏とコラ弾き坂入ヤスヒロの二人舞台。
皆様どうぞおつきあいください。

日時 2017年8月26日(土) 開場18:30 開演19:00
木戸銭 2000円

終演後交流会あり(参加任意)参加費千円

■ 坂入ヤスヒロ・YASUHIRO SAKAIRI ■
ドラマー・パーカッショニスト・コラ奏者。
偶然耳にしたDiaraby(jarabi)という曲を契機に西アフリカ音楽に傾倒し、西アフリカのハープ「コラ」を弾きたいあまりに楽器を自作、奏法を独習。
西アフリカの伝統曲を演奏するコラ・アンサンブルDjeli ya kan、オリジナル曲中心のアコーディオンとコラのデュオaccora等での活動を経て、現在、ブルースバンド等でのドラム演奏、コラのソロ演奏もしくは様々な演奏者とのデュオ演奏など、さまざまな形態で演奏活動を展開中
2015年、オリジナル5曲入りミニアルバム「涼季」を発表。

■ 月読彦 Tsukuyomihiko ■
.kitenあるじ。奇天烈月光団、浮世モードなんぞを率いて、物語性のある作品を作っている。罪/つくよみ というダンス名義もある。2017年、それまで躊躇してきたソロパフォーマンス開始。「踏交興在」というチーム作りを密かに温めている。最近はインスタレーションにも開眼。

70年代後半セックスピストルズと曲馬館に衝撃を受け、山海塾の金柑少年の初演頃を目撃。80年代初頭はパンクな日々。ボアダムズの山塚アイなんぞと遊んでいた。バックステージの活動をメインにしていたが、桃山邑に騙され!石間無為王、アッスン・rなんぞというクレジットで水族館劇場参加。あるとき不意に踊りに傾注し退団。長谷川六の薫陶を受ける。最近は演劇活動も再開しつつある。

今回は坂入さんの指名をうけ、踊る。よろしくお願いいたします!

「クラウド・チキン」シリーズからのバトンとして

新着情報のほうでは少しアナウンスが遅れましたが、「クラウド・チキン」シリーズ最終作品の作・出演者である川津望氏による

「クラウド・チキン 羅宇RuN乱痴気LOuDCLowN 川津望+古沢健太郎」を終えて

を公開しています。

これは続くシリーズへ渡す橋、渡されるバトンとしても書かれています。

窓枠越しの風景(2017年8月20日~10月29日)

8月20日 今井蒼泉 インスタレーション&パフォーマンス
9月2日  町田藻映子+柳静
9月9日  罪/つくよみ+栁静
9月18日 宮保惠+本田ヨシ子
9月19日 古沢健太郎+岡野愛
9月28日 友似
9月29日 山田花乃
9月30日 なごしいずみ
10月8日 田中奈美+入間川正美
10月14日 佐久間佳子+万城目純
10月22日 若尾伊佐子
10月28日 山田裕子+源一郎
10月29日 坂本美蘭

〈企画コンセプト〉

これまで、.kitenでのシリーズでは、
「水盤」そして「雨」を意識したインスタレーションを展開する機会をいただいた。

いずれも、そのマンションの一室という「場」を越えて突き抜けるものを求めてのことだったように思う。
そして、ふと。
逆のベクトルで、「こもる」ということについて目を向けてみた。

内と外。自分と社会。その間の境界線は、どこにあるのか。そもそも、境界はあるのか。
世界の全てが自分の夢だったとしたら、それは世界を自分が包摂したことになるのか、
あるいは世界という幻想の手のひらの中で、「自分」だと思っていた情報の小さなパケットが
動いているのを見つめているだけのことなのか(誰が?)

***

そしてまた。
言語があることで、概念を定着させることができる。そして言語をトークン、通貨としたコミュニケーションが可能となる。
しかし、言語によって、コミュニケーションで使いやすいトークンは限定される。
茫洋と広がる世界は、グリッドで区切られることで、小さな使いやすい単位へと切り分けられていく。
言語が備える世界のグリッドは、コミュニケーションの手がかりであり、そしてまた、茫洋たるものを囲う檻のようなものでもあるのかもしれない。

……などと寝言を書いてみる。
しかしものの表れは、ものの表れ。
動きの表れは、動きの表れ。
上で綴ったような寝言は脇に置き、その場の「機」を、いけられれば、などと。

───今井蒼泉/龍生派

「クラウド・チキン 羅宇RuN乱痴気LOuDCLowN 川津望+古沢健太郎」を終えて(川津望)

写真:坂田洋一

まず着目したのがクラウド・チキンの「影」。その影は、どのような形象へと変化を遂げてもひとつの文法で貫かれているように思われた。それは鶏が長い間、抑圧されてきた経験に基づく声にできないことばのようにも感じられた。今回、朗読とパフォーマンスをするチャンスが与えられたときに、私が一番関心のあったこととは、まさにこの声にできないことばについて表現することだった。理不尽な理由から社会的に声をあげることのできない者。暴力にさらされ、たとえ勇気をもってして加害者に立ち向かったとしても、いつの間にか情報操作され存在ごと消される者。見えているものより、隠されているものについて今は取り上げる必要があるのではないか。パフォーマンスだからこそ見立てが表現上に生きる、およそそのようなことを念頭に置き羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNは作られた(※1)。

 

私が本公演で使ったモティーフは、宮廷道化師だ。宮廷道化師は笑いものの対象とされる一方、君主に向かって唯一無礼なことも自由に言える存在だった。道化師に言われたことで君主が笑うとすれば、それは君主にとっての図星であり、本来なら触れてほしくない内情でもある。ちなみに宮廷道化師は何らかの障がいのある者が多かった。君主と羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNが抱える「病気」を同一視すること、これは書き手として今回の公演でどうしても外せないキーワードだった。主宰による企画コンセプトの冒頭部分「古代、鶏は神とともにあった」から、鶏/羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNが、神/君主殺しを経て、自己の外を見出し、還るべきところへ還る。そこまでを表現するのが本公演の趣旨だった。声を奪われた者たちの仲介者として、羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNが、自身の生みの親クラウド・チキンといかなる再会をはたすのか。おこなうパフォーマンスはまず新鮮味を出したかった。よって、その内容は即興がほとんどの割合を占めた。川津望が衣装として身体に絡めた葉はイチジクのそれを意識し、封筒へ入れたテキストの演出は「認識」を観客にとらえやすくする為の試みだった。

 

古沢健太郎が公演でやりたかったことについて彼からはなしを聞いた。それぞれの詩のイメージに沿った音作りをするとともに、全編にわたって何か統一感を持たせたかった。詩の印象とはまた独立して頭の中にあった「クラウド・チキン」より得た着想を生かし、雲は空へ、やがて遠いもの、遠い音となることを観客にイメージさせ、また自身が形作ることを目指したという。詩のイメージの音とクラウド・チキンのそれの二極を演奏によって行き来し、動きが出せたら、と考えていたそうだ。

 

公演の最終局面で川津がおこなったパフォーマンスについて。羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNの「葉」はクラウド・チキンへと巻きつけられ、羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNは歌いながらインスタレーションを抱擁する。君主にとっても道化師にとっても影は最も新しい。ラストの解釈は鑑賞者に委ねたい。このラストを書き手としては、次回のインスタレーションを展開する龍生派、今井蒼泉氏へ繋げたい思いがあったこともここに記しておく。

 

(※1) 羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNはクラウド・チキンのアナグラム。

 

「作品ノート」公開しました。

公開された作品について語るという行為は、鑑賞者のみに限られたものではない…
ということで、出展者・出演者に自作について語っていただくスペースを設けました。これから公開されてゆく作品に寄せるもの、あるいは上演した作品について語るもの…「作者が、その作品について」語る、ということ以外は執筆者の解釈にお任せした形でテキストをいただいています。

作品ノート

第1回は、8月20日よりこれまでの”クラウド・チキン”にかわってインスタレーションを公開いただく今井蒼泉氏による文章。今後、氏のインスタレーションと関わりながらさらなるパフォーマンスが展開されてゆくこととなります。

窓枠越しの風景 [インスタレーションとパフォーマンスに寄せて](今井蒼泉)

これまで、.kitenでのシリーズでは、 「水盤」そして「雨」を意識したインスタレーションを展開する機会をいただいた。

いずれも、そのマンションの一室という「場」を越えて突き抜けるものを求めてのことだったように思う。
そして、ふと。 逆のベクトルで、「こもる」ということについて目を向けてみた。

内と外。自分と社会。その間の境界線は、どこにあるのか。そもそも、境界はあるのか。
世界の全てが自分の夢だったとしたら、それは世界を自分が包摂したことになるのか、 あるいは世界という幻想の手のひらの中で、「自分」だと思っていた情報の小さなパケットが 動いているのを見つめているだけのことなのか(誰が?)。

***

そしてまた。
言語があることで、概念を定着させることができる。
そして言語をトークン、通貨としたコミュニケーションが可能となる。
しかし、言語によって、コミュニケーションで使いやすいトークンは限定される。
茫洋と広がる世界は、グリッドで区切られることで、小さな使いやすい単位へと切り分けられていく。
言語が備える世界のグリッドは、コミュニケーションの手がかりであり、そしてまた、茫洋たるものを囲う檻のようなものでもあるのかもしれない。

……などと寝言を書いてみる。
しかしものの表れは、ものの表れ。
動きの表れは、動きの表れ。
上で綴ったような寝言は脇に置き、その場の「機」を、いけられれば、などと。

───今井蒼泉/龍生派

朝読書会CM

8月19日10時~
朝読書会のCM映像完成いたしました。
当日は是非、朝から.kitenにお越しください。

群に向かない女~『みどりの群』の鑑賞記録(川津望)

みどりにあふれた舞台。奥の白い引き戸の上部に半そでのみどりのワンピース、袖なしのワンピースがそれぞれハンガーで吊るされ、手前の木製のちいさな卓にはコップふたつ。全巻揃わないマンガや、流行作家による以前誰もが読んだ小説が無造作に積まれている。放りっぱなしの洗濯物、椅子のうえとその周辺は散らかったままだ。そして舞台向かってひだりの壁側に、幅のある長いうすみどりいろの布が天井から垂れ下がっていた。そこが主人公の寝室だ。どこにでもありそうな片づけられない女の部屋、もしくは女の頭の中。吉田のゆりは「みどりの群 際限なく生まれてくるそれはわたしを脅かす」とフライヤーに書いている。思考する時、脳内の音声は他者には聞こえない。一方、象は人間には聞こえない低周波音で会話をするという。ならば、『みどりの群』とは何なのか。

 

とある会社で働く女は、東陽町でぞうを拾って以来、部屋で共に暮らしている。女はぞうに、会社の同僚と沖縄料理屋へ行った時、同僚がソーキそばのソーキをダイエット中だということで女のそばの器に投げ込んだこと、つゆが服に飛んだこと、同僚の交際関係の自慢話にうんざりしたことなどを話した。別の日、女は納涼会で仕事のおそい後輩と一緒の際、CDプレーヤーで後輩のいつも聴いている曲が、実は「聴くとしあわせになれる」という無音の音楽であると知り、びっくりしたことなど聞かせた。実のところ、女にはこころを開いて交流できる存在はいない。どんなに仕事ができても、慕われていても『みどりの群』の女は紛れもなく孤独なのだ。

 

「みどりは? 」

はじめ喋らなかったぞうが女をそう呼び、どうしたいのか尋ねた瞬間からぞうとみどりの立場は逆転してゆく。みどりの夢に出てくるぞうは、彼女の愚痴の内容を追体験する。みどりはまるでスーパーバイザー(※1)のように現実では起らなかったぞうの創作部分を「かなちゃんはそんなにやさしくない」と伝えた。ぞうはこの夢の中の共同作業によって成長し、やがてみどりを脅かす存在へと変貌してゆく。「代わりに仕事へ行って」「気になるあのひとの気持ちを聞いてきて」みどりのお願いをきくうちにみどりよりも「みどり」らしくなってゆくぞうとは反対に、みどりの孤独は増していった。やがて「みどりと群になる」という言葉をきっかけに、ぞうはみどりの存在まで飲みこもうとする。女は、「みどり」の本質を奪ってゆくぞうに向かって散々喚きたてながらも、せめて「みどりをとらないで」と呻くしかなかった。ぞうに「みどり」と呼ばれるまで女には名まえがなかったように、「ぞう」もまた象だとはひとことも名指されていないことについて思うところがある。「ぞう」はもしかしたら「像」かもしれない。それはみどりの「像」なのか、女の「像」なのか。「マーフィーは動かなかった、人が動物のために動かないように、あるいは動物が人のために動かないように(※2)。」人と動物、そのどちらの特性も先立たせないために女はあらゆる可能性を含んで、変わらない。女の同僚の「かなちゃん」も後輩の「すどうさん」も「みどり」と同じく孤独であり、孤独の「群」の中にいながらも「群に向かない女」たちなのである。

 

ラストシーンで女はすどうさんから手紙を受け取る。「みどりちゃん、」ぞうを介して受け取ったすどうさんの手紙には、ともだちになれそうな予感と感謝、またみどりちゃんがどんなに素敵なひとだと他者から思われているか、丁寧に記されてあった。手紙に添えられたすどうさんの無音のCDをみどりちゃんが聴いているうちに、ぞうはうすみどりいろの寝室へ立ち入ることなく、引き戸の外へ出て行った。.kitenのスピーカーから音楽が流れはじめた。客席のわたしにはもちろん聴こえないが、もしかしたらすどうさんのCDの曲は人間には聞くことができない象の語らいなのかもしれない。実際に.kitenに響く音楽が客席側から聴こえてくる効果も相まって、そのように思われてならなかった。

 

ぞう役の山田花乃の自然体な役作りと無垢な踊りに好感が持てた。そして何より、吉田のゆりのぶれない演技と蛇口をひねれば出てくるような語りの面白さは、特筆すべきことだろう。

 

(※1)スーパーバイザー:監督・管理・監修を担当する人物。また監視する主体のこと。

(※2)サミュエル・ベケット著 川口喬一訳『マーフィー』(白水社) p.193から

編註:
『みどりの群』2017年8月4日および6日に上演
作:吉田のゆり
共同演出:山田花乃(踊り)、吉田のゆり
みどりの群/際限なく生まれてくる/それはわたしを脅かす