世界に関わる遅速を愛す―今井蒼泉「窓枠越しの風景」へのささやかな返歌として(川津望)

龍生派、今井蒼泉が作ったインスタレーション「窓枠越しの風景」には時間の遅速がある。根も葉もない流言がきっかけとなり交流の断たれることを避ける為、蕪村が樗良に申し送った句「二もとのむめに遅速を愛すかな」の遅速とは一見、異なるにしても、だ。伝統に基づく型を離れ、人という文字のかたちに重ねて組まれた竹ひごが「一角を磨滅して三角のうちに住む(※1)」空間。ここでいくつかの竹ひごの出会いは凧糸によってしっかりと結ばれた。パフォーマンス前日、設計図は木製のテーブルのうえ、セブンイレブン アサヒ クリアクーラーの青い缶を横に見て、床に寝転がる今井はアートスペース.kitenで瞑想していた。スピーカーからは「レッド・ツェッペリン Ⅳ」が鳴り響いた。80本あるらしい竹ひごの束が今回、今井の用いる「機の種」だ。徳島の宅急便、長いものが安く送れなくなったんですよ。よいこら、と起きあがり、ツェッペリンの「Ⅲ」でゆきましょう、アコースティックな音ではだめ、と言いながら彼は養生テープを手で裂きはじめた。はやくも今井は能でいうシテの語りを引き出す作業に取りかかったのである。

 

当日のパフォーマンス冒頭、今井は天井のフックによって揚がった「機」の端へ手をのばしながらも寸前のところで触れない、その身ぶりをくりかえした。物事が起こるきっかけに「亂」という漢字の持つ両義的な性格がぴたりとくっついている様を、彼は身体と物音で表現した。使いやすいことばはまず立たず、何も招くことはできない(※2)。「きのふの空の有り所」(※3)として揚げられた竹ひごの「貌」 は、「ひと枝、ひと茎の植物が持っている個性を捉えて活かしていく」龍生派の根底を成す文脈とたしかに呼応しながら、床で今井の足指によって一部折られ、その表情を変えた。今井は行為に成る以前の動きで人の時、つまり順行する時間をあらわしているように私には感じられた。

 

ガード付きの裸電球ってまだありますかね。あるじの月読彦に彼は悪戯っぽい表情でたずねた。インスタレーションのすき間からすき間へと踊りながら移動し、竹ひごのしなり具合を確かめ、時おり月読彦のはなしに声をあげて笑う彼は明日、本番を迎える。何か面白いはなしをして下さいよ。彼は手を動かしながら月読彦に話しかけた。そこであるじは何かを言ったようなのだが、私は覚えていない。やがて雨が降ってきた。雷の音があたりに轟いた。この天気が夜の8時まで続くらしいですね。一度天井へと吊り上げられた網目をなす竹ひごの一枚が落下し床へ叩きつけられた。彼は偶然拾った糸巻きを持ちあげ、握ったかと思うと、.kitenの壺に残りの竹ひごをいけはじめた。すすきのように自身の重さで波打つ機の穂。戸外の雷鳴はやまず今井やあるじは笑い、時に頷きあうのだが、彼らの声は私には全く聞こえなかった。屋外が静かになり、ようやくあるじに声をかけようと口を開いたのだが、なぜか名まえが出てこない。困っていると、うしろで今井蒼泉があるじの名まえを呼んだ。.kitenあるじ、月読彦は「はい」と答えた。

 

パフォーマンス前日は雷雨のせいもあってか、シテの過去へと引きずりこまれるような不思議な時間が流れていた。「世界の全てが自分の夢だったとしたら」今井蒼泉は.kitenサイトの作品ノートでそう記している。また「こもる」ということについて目を向けてみた、とも。昔、日本では贖罪の方法として「はらい(払い)」系に属するのと「こもり(籠り)」系に属するものがあった(※4)。「はらい」系の刑罰には『伊勢物語』の在原業平の東下り(※5)のように、確かな罰ではあるのだが、歌を詠み、恋までしてしまうような余白もあったのに対し、一方「こもり」は現代にも引き継がれる不自由な様相を呈している。だからこそ、今井蒼泉の「窓枠越しの風景」に見る現在には遅速があるのである。人の時間と植物の時間、ワキとシテの時間、そして「はらい」と「こもり」、梅に二木あれば、早咲きも遅咲きもある、その異なりこそいいのであって、遅速を愛す蕪村がおり、二つの時間を愛し、引き合わせる今井蒼泉がいるのである。役者の顔や面など「今は昔」として使い込まれてこそ、その構えは形づくられるように思う。今井が手がけたインスタレーションは、これから集う表現者がそれぞれ皺を刻んでゆく機会が得られるように、「六十年後の春(※6)」として若く、遊び心をもって.kitenに浮かんでいる。

 

(※1)夏目漱石『草枕』第3章より。

(※2)華道の起源は古代からのアニミズムの流れとして、植物を立てて神を招くという行為が考えられる。

(※3)与謝蕪村の句「凧巾きのふの空の有り所」より。

(※4)安田登著『異界を旅する能』(ちくま文庫)p.155~p159を参考とした。

(※5)『伊勢物語』の主人公である在原業平の「東下り」の漂泊が能『杜若』にも息づく。

(※6)永田耕衣の句「少年や六十年後の春の如し」より。

編註:なお、執筆者の川津氏より、理解の助けにと「華道」および今井氏の活動する流派である「龍生派」に関するWikipediaが提示されました。今回のインスタレーションおよびパフォーマンスの重要な背景と判断し、こちらでもご紹介いたします。

掲載写真は.kiten主宰、月読彦氏によるもの。活けられた花はインスタレーションには含まれず、ただ、ひとの気配のひとつとして氏により設置されたものです。

 

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