「クラウド・チキン 羅宇RuN乱痴気LOuDCLowN 川津望+古沢健太郎」を終えて(川津望)

写真:坂田洋一

まず着目したのがクラウド・チキンの「影」。その影は、どのような形象へと変化を遂げてもひとつの文法で貫かれているように思われた。それは鶏が長い間、抑圧されてきた経験に基づく声にできないことばのようにも感じられた。今回、朗読とパフォーマンスをするチャンスが与えられたときに、私が一番関心のあったこととは、まさにこの声にできないことばについて表現することだった。理不尽な理由から社会的に声をあげることのできない者。暴力にさらされ、たとえ勇気をもってして加害者に立ち向かったとしても、いつの間にか情報操作され存在ごと消される者。見えているものより、隠されているものについて今は取り上げる必要があるのではないか。パフォーマンスだからこそ見立てが表現上に生きる、およそそのようなことを念頭に置き羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNは作られた(※1)。

 

私が本公演で使ったモティーフは、宮廷道化師だ。宮廷道化師は笑いものの対象とされる一方、君主に向かって唯一無礼なことも自由に言える存在だった。道化師に言われたことで君主が笑うとすれば、それは君主にとっての図星であり、本来なら触れてほしくない内情でもある。ちなみに宮廷道化師は何らかの障がいのある者が多かった。君主と羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNが抱える「病気」を同一視すること、これは書き手として今回の公演でどうしても外せないキーワードだった。主宰による企画コンセプトの冒頭部分「古代、鶏は神とともにあった」から、鶏/羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNが、神/君主殺しを経て、自己の外を見出し、還るべきところへ還る。そこまでを表現するのが本公演の趣旨だった。声を奪われた者たちの仲介者として、羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNが、自身の生みの親クラウド・チキンといかなる再会をはたすのか。おこなうパフォーマンスはまず新鮮味を出したかった。よって、その内容は即興がほとんどの割合を占めた。川津望が衣装として身体に絡めた葉はイチジクのそれを意識し、封筒へ入れたテキストの演出は「認識」を観客にとらえやすくする為の試みだった。

 

古沢健太郎が公演でやりたかったことについて彼からはなしを聞いた。それぞれの詩のイメージに沿った音作りをするとともに、全編にわたって何か統一感を持たせたかった。詩の印象とはまた独立して頭の中にあった「クラウド・チキン」より得た着想を生かし、雲は空へ、やがて遠いもの、遠い音となることを観客にイメージさせ、また自身が形作ることを目指したという。詩のイメージの音とクラウド・チキンのそれの二極を演奏によって行き来し、動きが出せたら、と考えていたそうだ。

 

公演の最終局面で川津がおこなったパフォーマンスについて。羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNの「葉」はクラウド・チキンへと巻きつけられ、羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNは歌いながらインスタレーションを抱擁する。君主にとっても道化師にとっても影は最も新しい。ラストの解釈は鑑賞者に委ねたい。このラストを書き手としては、次回のインスタレーションを展開する龍生派、今井蒼泉氏へ繋げたい思いがあったこともここに記しておく。

 

(※1) 羅宇RuN乱痴気LOuDCLowNはクラウド・チキンのアナグラム。

 

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