穴だらけの空間で──南阿豆「生成/〜になる」最終日(評:北里義之)

穴だらけの空間で──南阿豆「生成/〜になる」最終日
(観劇日:2016年10月10日)

スペースを主宰する奥野博が基本のアイディアを出し、前衛華道家の今井蒼泉が制作したインスタレーションを共通の条件にして、週末ごとに多彩なゲスト・パフォーマーによる日替わり公演がおこなわれるアートスペース.kitenの企画展は、水をテーマにした夏の「水のある光景」から、木をモチーフにしたオブジェが室内を浮遊する「生成/〜になる」へと移り、制作者である今井蒼泉のパフォーマンスを皮切りに、9月上旬から多彩なゲストを迎えて開催されてきた。水槽のなかにたゆたう手強い水の物質感にくらべると、まばらに設置された枯れ枝や細竿のオブジェ群は、「水のある光景」とは対照的に、殺風景なマンションの一室に、穴だらけの空間を分節するように思われた。行為者の立ち位置によって、内側と外側がたちまちに反転していく空間の性格は、アルトーの「器官なき身体」のようなもの、言い換えるなら、縦横無尽に気の通う空間を形作っていた。上手も下手もない、天井も床もない、観客席もホリゾントもない空間に、シリーズ最終ゲストの南阿豆は、モデラートを刻むメトロノームを手にして、暗転後の暗闇に外のベランダから滑りこんできた。

ここでのダンスは物語を描き出さない。踊り手自身の身体や、いくつかのオブジェを種にして、その周囲にひとつひとつ動きを発生させていくだけである。南が持ちこんだメトロノームは、時間を刻むことを目的とするものではなく、それが最初に置かれた場所を(方向性を喪失したこの空間では「仮の」というべき)ダンスの開始点とするものだった。メトロノームから遠ざかった先で、天井から垂直にさがるスポットが彼女をとらえる。見えない誰かから左手を後方にねじあげられるようにして、あるいはまばゆい光を両手でさえぎるようにしてくりかえされる身体の上下動。さらにその場所から後退していくと、その先では、天井からさがる電球を抱きかかえたり、ほおずりをしたり、頭上高く捧げあげたりしながら、壁に映る自身の巨大な影とダンスした。そのまま電球を手放すと、胎児の姿と、海老反りをくりかえして床上を転々としてから、頭上の光に手を伸ばし、電球の真下で反り身からゆっくりと上体を引き起こす。ひとつとして同じ動きがない。そのままうつぶせになると、まるでいきどころをなくしたように床のうえを這いまわり、壁まで移動すると石のように動かなくなった。

照明が電球の赤からスポットのブルーへと移り、パフォーマンスの後半がスタートする。後半では、床と天井を弓なりに結んで設置された何本もの細い竹竿が、前半では見られなかった大きな動きを発生させる装置となった。生き物のようにしなう竹竿が、ダンサーの足もとをすくう危うさを封じこめながら、その場で踊りの形を模索する一発勝負のダンスがつづく。前後半でのダイナミックな動きの変化は、彼女の舞踏作品でしばしば採用されるスタイルを反映したものともいえるだろう。踊りの終着地点は、空間のセンターに置かれた切り株を彷彿とさせる茶色い物体の入った円筒だった。動きのスピードを落とした南が、円筒の横に座り、祈るように前屈をくりかえすなかで暗転、身体は闇のなかに沈んでいった。そこで終幕かと思われたが、そのあとふたたび暗闇を歩きまわる足音が響き、黒い影になったダンサーは窓から退場していった。

本展の開始に先立つ企画説明のなかで、主宰者の奥野は3つの生成モデルを提示している。いわく、(1)種から発芽して花が咲いて枯れていくという植物生成モデル、(2)混沌が陰陽(男女/牡牝)に分離したあと「結合」によって万物が「生まれた」とする動物生成モデル、そして(3)神がすべてを創造したという無からの生成モデル。あるいは制作行為モデル。この図式にあてはめていうなら、南阿豆の舞踏は、奥野自身が示唆している(「舞踏が日本的なのはやはり『〜なる』という表現スタイルを強く意識しているからなのかもしれません」)ように、ひとつひとつのオブジェを種にダンスを発生させたという点で、植物生成モデルと呼べるだろう。それは混沌を殺すことなく、その都度異なる開始点と終止点を仮設し、いくつもの穴を吹きすぎていく風のようなものといえるだろう。後半に訪れた大きな動きを、演劇的クライマックスと受け取ることもできるが、おそらくそれは習慣づいた観客の眼にそのように見えるだけで、踊りはひとつの穴の周辺で、オブジェを種としながら発生したに過ぎなかったのである。

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