先日お知らせいたしました、3月24日開催の「喜・舞・音 ―第0回喜和堂朗読会」につきまして、ご予約フォーム、およびフォームへのQRコードができました。告知ページに追記いたしましたので、是非ご利用ください。
多くの方のご来場をお待ちしております!
先日お知らせいたしました、3月24日開催の「喜・舞・音 ―第0回喜和堂朗読会」につきまして、ご予約フォーム、およびフォームへのQRコードができました。告知ページに追記いたしましたので、是非ご利用ください。
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Work in Progress…
作品が、そして作品のある空間が生み出されてゆくその過程も、また表現の重要な一場面なのです。
というわけで、現在進行中のインスタレーション作成の様子を。.kitenあるじ、月読彦氏と共同にて今回のインスタレーション構築に携わる、川津望氏によるご紹介です。
(撮影:月読彦)
アートスペース.kitenでは企画シリーズ始動に向けて、新インスタレーションが制作されています。熟考されたコンセプトに基づき.kitenにさまざまのインスタレーション、また企画シリーズを展開してきた主宰、月読彦。今回は交流会で空いたワインの壜、モールや造花、書物を用いて受付に飾り付けを施してきたブログ/実働スタッフの川津望が、インスタレーションの共同制作者です。
過日、造形作家/デザイナーとして活躍中のeerie氏が.kitenを訪れました。ライブペインティング、映像、モデル業など表現媒体や方法を多く採用し、その濃密な世界観で熱狂的なファンを持つeerie氏、今後アートスペース.kitenでのイベントの企画が期待されます。
新たなインスタレーションは空間でどのように表現者と出逢い、変容してゆくのでしょうか。完成を今しばらくお待ちください。
(撮影:いずれも川津望)
旧正月を迎えようとしている今日この頃、きっと気の早い桜が咲きだすだろう頃に新しい朗読会を企画しております。是非ぜひお運びください。
「詩と舞踊はもと同じだった」ーー私はさらに、ダンスは詩の母であると思いたい。 野村喜和夫「ららら、ひとの穂、飛ぶよーー詩とダンスとの関係をめぐるランダム・クロニクル」『移動と律動と眩暈と』書肆山田、2011年
限界や必然性から逸脱している還元不可能な部分、至高の部分が、自分のなかにあるということもまた存在は知らなければならない。 ――ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』山本功訳、筑摩書房、1992年
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流れてくる、パン屑が籠から散乱して、さらに悪臭、薔薇。水底では肺に残された空気が私達の場所だ。心身に充満する言葉、身ぶり、音楽、鼻腔や唇から少しずつ喪失されるものごとを同じく担う。漂流物を留める顔が水中で揺らぐ時、馬の切り尾の釣糸により表情筋を踊らせ、私達はあるほどの声を開闢する名指し得ない呼吸となるだろう。
朗読:野村喜和夫、森川雅美、渡辺めぐみ、
はんな、芦田みのり、山口勲、川津望
演奏:加納伊都、KOYU(コウユウ)
舞踏:武智博美
インスタレーション/照明/演出:月読彦
企画アドバイザー/協力:山口勲
企画/DMデザイン画:川津望
監修:喜和堂
場所:アートスペース.kiten
日程:3月24日(土曜) 18:30開場19:00開演
料金:2,000円
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プログラム:
19:00 第一部
加納伊都 オープニング
作曲:川津望「自動筆記」
1. 川津望 音楽:KOYU 舞踏:武智博美
2. 芦田みのり 音楽:KOYU
3. はんな
武智博美 ソロ・パフォーマンス
4. 森川雅美 音楽:KOYU 舞踏:武智博美
20:00~20:15休憩
20:15 第二部
5. 山口勲 音楽:加納伊都
「Poulenc violin sonataより」
加納伊都 独奏
「Gypsy’s air from Ravel Tzigane etc.」
6. 渡辺めぐみ 舞踏:武智博美
パフォーマンス 音楽:加納伊都、KOYU、川津望 舞踏:武智博美
「木下牧子 古い絵より」
7. 野村喜和夫 音楽:加納伊都
「Korngold from violin conzert,“死の都”から騒ぎetc.」
舞踏:武智博美 21:15 終演予定
予約フォームはこちら
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直前の告知となってしまいましたが、先日.kitenにて非公開稽古を行なったアルチュール佐藤氏の公演企画が、2月16日より始動いたします!
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公演よりも自主稽古を愛する、アルチュール佐藤がおくる、
摩訶不思議な演劇世界にようこそ。
一昨年には顎の癌により、手術を余儀なくされた役者が、
滑舌に変調を来して、だからこそ届く、欠落した身体からほとばしる、言葉を聴け!
におうがごとき、渾身の露わな姿は、われらを震撼せしめよう。
必見!
日時 2月16日 19時半開場 20時開演
出演 アルチュール佐藤
木戸銭 千円(第1回、記念価格)
終演後、懇親会
参加費 千円(参加任意)
軽食と飲み物を用意いたします。
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(撮影:いずれも川津望)
是非見届けにご来場下さい!
本日は.kitenにて、役者のアルチュール佐藤氏による非公開稽古が行われていました。非公開稽古なので本来非公開なのですが、許可をいただいたので、稽古の様子を一部公開いたします。
アルチュール佐藤氏は昨年末の月読彦生誕の宴でもインプロパフォーマンスを披露、また、今後も.kitenで公演活動を行なっていく予定です。本日の稽古はその基礎ともなるものでした。
ますます充実する.kitenにどうぞご注目を!
ミュージシャン、ヴォイスパフォーマーの方に朗報です。浅原ガンジー氏より、スペースに機材のご寄贈をいただきました。
マイク!
マイクスタンド!
アンプ!
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音系パフォーマンスのさらなる充実が期待できます。また、.kitenご利用を考えておいでのアーティストの皆さまにとっても、より使いやすいスペースになってきたかと存じます。
まずは浅原氏に感謝! そしてより使いやすくなっていく.kitenにどうぞご期待ください。
(撮影:塚本よしつぐ)
1月5日のプレオープニングから3週間以上にわたって.kitenに存在してきた「水の
トーテム」とその周囲に展開した世界にも最後の日が訪れます。その日、「水のトーテム」とともに在ったのは、舞踏家・田村のん氏でした。
その日の公演の模様を企画設定者たる塚本よしつぐ氏はこう語ります。
★
田村のん。終わりを告げるということは、誰にでも出来ることではないのです。終わりを告げる権利を持つ舞踏家、田村のん。
誰にでも人生の最期の日は訪れるでしょう。その時に、終わりを告げる権利を持つ者に、立ち会っていただきたいのです。その人は最愛の人でないかも知れません。最愛の人は永遠の中に生き、終わりを告げることができないかも知れません。職業的宗教者は儀式ばかりに終始するも知れません。
覚えておりますでしょうか、万城目純氏がプロローグを投げて下さいました。(万城目氏は始まりを告げる権利者です。だから、生誕を繰り返えす。)
「されど、死ぬのはいつも他人」
マルセル・デュシャンの墓碑に刻印されたこの言葉が、水のトーテムの序幕だったのかも知れませんね。その通り、私たちは自分の死を見ることができません。水のトーテムは自らの死を見ることはないでしょう。
水は死なない。水脈を伝わり、海へそして、再び雨になり、森を潤し川へ河口へとその循環の中にあると信じておりました。エピローグ。最期の日に田村のんから喜びの囁きが溢れました。
田村のんは青いビニール傘をさし、ゆっくりと現れました。水のトーテムと隣り合って、傘に身を隠し、手首だけ生えたように仕草を見せました(さようなら)。
踊りが始まり5分程でそう告げるように手を振る。あるいは紫陽花と戯れるカタツムリのように。思えば、彼女がリハーサルで入念に確認した、唯一の振りでした。
終焉を告げる鐘の音。これものんさんがもたらしたカリオンでした。狭い吸音装置のような.kitenに響く鐘はどこに向けて終わりを告げたのでしょう。知らせはあなたに届いたのでしょうか。
「なかんずく、音に注意せよ。
吸音的であること、反射的であること。ピタゴラスが、天界の運動の音響(ハルモニア)を聴いたことを想起せよ。」『集落の教え100』原広司 著
私たちは、終わりの知らせを聴きました。確かに、聴きました。しかし、それは、情報ではないのです。情報ではない知らせを、なんと呼べば良いのでしょうか。ハルモニア。宇宙の調和。福音でしょうか。
やがて、堰を切ったように溢れ出す洪水。のんさんの目は赤く滲む。
映写機から花の刺繍が写し出される頃に歌が流れる。
「雨の降る日を待って
さらば涙と言おう」
確かにこの曲を選んだのは私でした。みなさんの思い浮かべる曲調と違うスローテンポのアレンジでしたから、気づかなかったかも知れませんね。青春の勲章はくじけない心だと、知った今日であるなら、さらば涙と言おう。
さらば涙は何処へ行くのだろう。水のトーテムは何処へ向かうのだろう。暫く、田村のんは映写されたレースの影に照らされて佇む。
または、足を投げ出ししゃがみ込む姿は、赤と青の混じる地点にあり、奥へと流れる。表層であり奥へ行くのは、その襞。影のレースの映写の襞のその奥の、さらば涙が伏水す。
やがて、微音から始まるフィナーレ。同時に、のんさんは鼻歌を漏らす。音楽は同調するように、喜びの鼻歌に添う。
やがてグスタフ・マーラーが編曲された荘厳な音楽気づく間も無く共に舞台からゆっくりと消える。それでも照明は仄暗く水のトーテムを照らして下さいました。そうして、水のトーテムは終わることができました。
感動を強要するようなことでなく、理解を訴求することでなく、私たちは水のトーテムにただ向かいました。しかし、私は常に心揺さぶられ、解り合い感動するとは別のところへ行くことはありませんでした。のんさんの佇むところは水のトーテムの『分水嶺』でした。ある涙は〈共〉を共にする感動と〈知〉を愛する理解へ、ある涙はそうではない別のところへ流れて行きました。
2018.1.28
.kiten
水のトーテム
田村のん
塚本よしつぐ
撮影 佐藤ユカ
塚本よしつぐ
動画撮影 宮保恵
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(撮影:佐藤ユカ)
(撮影:塚本よしつぐ)
今週末イベントのご案内です。
2月10日(土) 19:00~
木戸銭 2,000円
※いつもどおり終演後に懇親会(参加費1,000円)ございます!
是非ぜひお運びくださいませ。
舞 方:遠藤栄江 田中奈美
三味線:阿坐弥ーアザミー
お囃子:浅原ガンジー
口 上:風月純史
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なお、2月10日の囃子方、浅原ガンジー氏より.kitenに、本日、ベースアンプ、マイク、マイクスタンドのご寄贈をいただきました。おかげさまで一層充実したパフォーマンススペースとなりました。ありがとうございます!
「水のトーテム」1月27日に行なわれた久世龍五郎+川村祐介公演について、批評家の北里義之氏より文章をお寄せいただきました。
静かな空間の静かな身体──久世龍五郎×川村祐介@塚本よしつぐ「水のトーテム」(評:北里義之)
ドラマ、対話を排し、空間そのもの、音、身体そのものとしてそれぞれが存在していたーーと、静けさに徹した表現を指摘する評。これもまた「水のトーテム」の別の側面であったことをうかがわせます。
批評アーカイブに掲載いたしましたので、是非お読みください。
(撮影:北里義之)
塚本よしつぐのインスタレーション展『水のトーテム』のなかで、舞踏家の久世龍五郎とトランペット奏者の川村祐介が共演した。今回塚本はイベントの人選と組合せも担当、さらに正面の壁に作品の入っていない額縁を掲げ、公演中にプロジェクターを使って額縁を含む壁面に映像投影をおこなうライヴ・インスタレーションもおこなったので、本公演も実質的にはトリオ・セッションとしておこなわれた。
室内の壁や天井の全面には、内側にべったりと接着剤を塗ったブルーのビニール袋が、煉瓦を積みあげるように規則正しく貼りめぐらされ、下手コーナーの床面には、半分ほど水が入ったビニール製のキューブを積みあげて小さな空間を囲い、池のようにもプールのようにも見える空間を形作っていた。正面の壁に投影される映像も、水面に油や絵具を流してできる文様を使ったキネティックなもので、インスタレーションは水のイメージを多層的に塗り重ねていくものになっていた。狭いキューブ内に作られた畳一畳ほどしかない空間を使って踊った久世に対し、反対側の壁を背にして床に正座した川村は、踊り手の動きに直接的な反応を返すことなく、またなんであれメロディーの印象を残す演奏もせず、風が吹きわたるようにして楽器を鳴らし、いまここの空間を全身で感じながらその全体を支えるようなサウンドを間歇的に出しつづけるパフォーマンスをおこなった。即興的なセッションというと、どうしても対話的な展開がイメージされがちだが、川村の演奏は、サウンド・インプロヴィセーションと呼べるような、空間そのものを浮かびあがらせる響きの音楽であった。
空間に働きかける川村の演奏とは対照的に、水のはいったビニールキューブに囲まれた狭いスペースに自身を閉じこめた久世の舞踏は、動きよりも形を重視し、空間にパズルのように身体をはめこんでいくもので、即物的というのとは違う、あえていうなら幾何学的にとらえられた身体というべきものだったように思う。つねにみずからの身体に意識を集中しながらおこなわれた踊りは、膝を屈する、背中を丸める、尻と足先ををあげてうつぶせに寝そべる、床にすわる、倒立して両脚をまっすぐうえにあげる、壁に面して立つといった動きを、ひとつひとつていねいに経由していくダンスだった。脚が床からゆらゆらと生えるようにのびて動く倒立の姿勢や、不安定に身体を浮かすようにしてうつぶせた上体のしたから、逆さになった顔がのぞくといった形を例外として、ごくささいな日常的動作が、非日常の身体の形と同じ密度と集中力をもって踊られていった。
ちなみに川村の音楽は、.kitenのようなホワイトキューブの空間よりも、サイトスペシフィックな環境のなかに置かれるとき、その本質を開示してくるように思われる。空間性よりも場所性が際立った環境を響かせることが、身体をその場に溶けこませることにつながるためだが、正座して臨んだ.kitenのセッションでは、身体を殺すようなニュアンスが生まれてしまっていた。一方の久世の舞踏も、グラスホッパーのジャンプを反復するというような、即物的な動きをタスクにした場面構成がなされるときに彼らしさが前面にあらわれるように思うのだが、今回の設定では、そうした自由を行使することも望めなかった。
演奏家の身体や、演奏家が奏でる響きと踊りとの対応関係はなく、壁面に投影される塚本の映像が、それらふたつの身体をつなぐということもなく、公演はディメンションを違えた個々の風景がそれぞれに流れていくというものだった。ある意味では、そのようにすることによって.kitenの極小空間をもっとも広く使ったパフォーマンスともいえるだろうか。最後の場面で、キューブのひとつを右肩に乗せた久世は、キューブで仕切られた結界の外に出てくることでクライマックスを作った。外の世界に歩み出た舞踏家は、それでも演奏家と対峙する様子はみせず、川村の前を静かに通過してステージの外へと消えていった。静かな「水のトーテム」の空間に、三者三様の身体が静かにインスタレーションされた公演だった。■
(観劇:2018年1月27日|執筆:2018年2月4日)