「水のトーテム」26日、田中奈美公演ご報告

(撮影:柴田正継)

上演企画完遂の後にこうして記事を書いていると、現場の時間とは別に「行なわれた行為、展開した情景を語り、文字にとどめる」ということの意味を改めて思います。

「水のトーテム」1月26日は田中奈美氏を迎えての公演でした。報告は空間設置者であり、このときはまた演者としても存在したという塚本よしつぐ氏。

理解の深度と感動の広域から離れて在る方法を一つの「作品」に残したいと思っておりました。同時に私たちの童心と憧憬の為に。

一か月に及ぶ、水のトーテムという連作のワンピースとして田中奈美さんとの共同作品を上演することになりました。しかし、それは同時に.kitenという児童館での試作でもありました。または、次回への布石として。

深い森への理解、広い海への感動、からの離脱。まばらな木立が囲む人里離れた小さな湖に木の葉が浮かぶ、さざ波のような作品。

赤いリボンを結わいた田中奈美さんは青い羽根を袋に詰めて現れます。幸せの青い鳥の羽根を毟り獲った天使の無邪気さ。舞台には小さな白い矩形が積んであり、大変脆いものでありますから、崩さぬよう静かに舞い降ります。

奈美さんから、チープな音楽というリクエストがあり音楽は塚本が作ったチープエレクトロニカから始まり、終わることにしました。(恥ずかしいことに僕は自分で作った曲が大好きすぎるのです。それは仕方ないことです。20代ずっとそばにいて支えてくれた音たちですから)

始まりからいくつかの事件が起こりますが、即興表現ですから、思いもよらぬ行動が作品を彩りました。
塚本の身体が舞台に関わるのは町田藻映子さん以来です。積み上げ崩れる矩形、青いトーテムを散布。または水玉を映写する。その過程で、やはり表現が小さな湖に留まらず大きな方へ想像されてしまう。小さな湖は深い森と大きな海へと流れて行きます。ここは反省すべきでありながら、しかし、大きな揺さぶりは楽しいものです。

お写真を拝見する限り、作品の美意識は奈美さんの踊りと所作にありました。踊りながら矩形やトーテムを中央に集め、波間の岸辺を作り上げる奈美さんは、言わずもがなセンスがある。これは訓練ではない持って生まれたものです。

奈美さんとは即興表現の会合でご一緒する度に思うのですが、身体言語が大変豊富です。しかし、表現に対して日常言語でのコミュニケーションは不得意ですから、色々言葉で打ち合わせしても良いものは生まれないのです。実は僕自身そういうところがあり、僕は抽象絵画が一番しっくりする言語ですから、違う表現言語同士を翻訳する「即興」表現が要となります。
ですから「作品」であり、同時に「試作」であります。再現性と順位を無化すること。ですから殊の外、感性・センスが大事です。これは経験や訓練では無いのです。

最後の最後で、僕は冬の岸辺でただ一人、彷徨う魂と漂う体をしっとりとした形而上学に見出そうとしている頃、田中奈美さんは具体的に片方の靴を探している。このユーモア。これこそ田中奈美。センスが光りました。

惜しむらくは色彩がもう少し緑へと向かうはずでした。終演後、水面は深い緑になりました。
再現でない、試作の再演が楽しみな、なんとも詩情溢れる作品でありました。

奈美さんおつかれ様でした。
また、やりましょうね!

2018.1.26 .kiten
水のトーテム
田中奈美(ダンス)
塚本よしつぐ

撮影 柴田正継

(撮影:いずれも柴田正継)

2月12日、町田藻映子+小森俊明公演ご案内

大型連続公演企画の上演を完遂した.kiten、2月も見るべきイベントが次々と展開してゆきます。まずは「水のトーテム」にても踊り手として好評を博した町田藻映子氏と音楽家・小森俊明氏のコラボレーションをご紹介。イベント紹介文は.kitenスタッフ、川津望氏です。

https://www.facebook.com/events/2043637505916134/

2018年2月12日(月・祝)
場所:アートスペース.kiten
開演:18時
料金:2千円
踊り:町田藻映子
音楽:小森俊明

プロフィール

町田藻映子

2013年3月 京都市立芸術大学 美術学部美術科日本画専攻 卒業
2015年3月 京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程 絵画専攻(日本画)  修了
絵画制作の主題に身体を通したアプローチを行うため、コンテンポラリーダンスをヤザキタケシに、舞踏を由良部正美に学ぶ。
また、自身の身体の内と外の境界線への洞察に重きを置き、主に即興でのソロ活動を行う。

詳細は以下のリンクをクリック↓

https://www.moekomachida.com/profile

小森俊明

作曲家、編曲家、ピアニスト。現代音楽、クラシック、異分野のアーティストとのコラボレーション、集団即興演奏、フリージャズ、合唱の各領域で活動。東京藝術大学音楽学部作曲科を経て同大学院音楽研究科修士課程作曲専攻修了。これまでに作曲および音楽理論を國越健司、松下功、野田暉行、小鍛冶邦隆の各氏に、ピアノを三谷亜佐美、阪倉良百、市田儀一郎、遠藤恵眞子、岡野壽子の各氏にそれぞれ師事。また、陶芸を鴨下知美、茶道を故・境和子の各氏に師事。

詳細は以下のリンクをクリック↓

https://komoritoshiaki.com/profile

美術家/ダンサーの町田藻映子氏は、アートスペース.kitenのシリーズ「クラウド・チキン」(インスタレーション:奥野博氏)、「窓枠越しの風景」(インスタレーション:今井蒼泉氏)、「水のトーテム」(企画/総合プロデュース:塚本よしつぐ氏)にも出演され、インプロ大会などにも積極的に参加されています。美術家ならではの知的でフレキシブルな空間表現が期待されます。
作曲家/ピアニスト/文筆家である小森俊明氏は、作曲家として国内外で作品を発表されながら文筆活動、音楽のためのひらかれたレッスンや、ピアニストとしてさまざまの場で類い稀な音楽表現の力を発揮されています。昨年の川津望企画即興オペラ「メゾンit」、ゲストとしての参加ながら、ミーティングでは初期の段階からたくさんのアドバイスや心のこもった意見など、出してくださいました。確固たる知性に裏打ちされた技法と言葉と親密な方法論、思考と言動に一貫した連動性を持たれ、即興では遊び心も大いに含ませたアプローチで観客を常に虜にしてきました。

ふたりの表現の出会いは必然性をもはらむでしょう。当日はぜひ.kitenへおでかけください。

「水のトーテム」上演プログラム完遂いたしました

1月5日から3週間以上にわたって空間とインスタレーションと行為の関わりの中からさまざまな様相を生み出し続けてきた「水のトーテム」。1月28日の田村のん公演をもちまして、すべての上演プログラムを完遂いたしました。

しかし、企画はまだ続きます。発信されたものがいかに受け止められたかの記録とご報告はまだこれから。月が満ち潮が満ちるように公開されてゆきますので、どうぞお楽しみにお待ちください。

また、それとクロスオーバーするように新たな企画、新たな時間もまた展開してゆきます。そちらもどうぞお楽しみに!

「水のトーテム」 21日 宮保恵+andré van rensburg公演ご報告

(撮影:大杉謙治)

過剰、のあとの、静謐。潮の満ち干、波の呼吸のように。
21日、「水のトーテム」は宮保恵氏、そしてAndré van Rensburg氏を迎えて、また新たな表情を展開しました。この日の報告は塚本よしつぐ氏。

宮保恵
アンドレ・バン・レンズバーグ

水のトーテムの公演をほぼ全部観賞している宮保恵にとって、今回の公演は踊りに徹して行こうという決意があったことでしょう。

何しろ、前日の川津望、坂本美蘭のDUOほどに破壊と創造をし尽くすことよりも、自分の踊りに徹して行く方が彼女のやり方ならば「水のトーテム」に深く関われるに違いないでしょうから。アンドレもギターに集中するでしょうし、塚本の映写もそのような思惑がありました。先ず映写に徹したいのだ、と。

「赤い」トーテムの仄かな
光、8mm映写機の上映から始まり、映し出される夜景、浄化されたしじまに響くアンドレのギター、ゆっくりと歩み出る宮保、その始まりからすでに足先は床を純度の高いダンスでならしていく、

床から闇、または
壁から光へと交差して行く身体、アンドレの包み込む音の粒と8mm映写機の音障は空間を隈なく満たして行く、宮保の衣装は薄赤紫のペイズリーを照らす仄かな赤のトーテム越しの光、光の凝縮した闇を解きほぐすように舞う、

衣装の襞が
壁に張り付いた光を浮き彫りにする、投影された具象、月、街灯、高架橋から俯瞰する赤い川、淡い焦点が網膜と被写体の間に水面を作る、アンドレのギターの音の隙間に、時折、映写機の磁石に反応する微細な周波音、

滞りなく進む
8mmフィルムは正転反転を幾度か繰り返し、24齣と18齣を行き来する際、音の違いが宮保の動きとアンドレの和音に作用する、開け放った小窓程の映写から、100号の水彩絵画へと光は広がる頃、宮保も薄赤紫の水飛沫をするりと放つ、

水彩絵画は
20世紀絵画の影響を色濃く壁に映すが、眼底に焼きつく前に横滑りする、既視感は初めて観ることの証左である、既に観たものは一瞬たりとも無く、常に光は闇へ伝播し、同時に闇は光へ収斂する、光と闇は表裏でなく抗うことなく共する、

軽やかさを
保つ水溶性は漂白されたが少し残滓する風景写真に重なり映し出され、身体、音ともに像が何度となく溶ける合う、塚本からの水飛沫の映写、雨、川面、水溜り、青から赤への浸食、宮保の肌に触れる磨かれた床とみずうみの影、

宮保が床を叩く
硬質な音は目で追うことのないアンドレの耳を手繰り寄せる、宮保の濡れた髪、アンドレの指先、塚本の滲む色彩、揺らぎ

やがて宮保の
ダンスが水のトーテムそのものとなり、そもそも水であり、トーテムであるとは一体何なのか、答える間も無く、滞ることなく、淀まず、来るものを拒まず受け流す、床は磨かれ、それでも尚、水のトーテム前半の様々な詩的行為の水脈を、そのアウラを纏い、未だ観ぬ水のトーテム後半のアウラの海を呼び起こしつなげて行く、

水のトーテムを
最も象徴した細部の美しい作品でありました。完成度、抽象度、そして鑑賞の満足度も高くありました。

ですから、お写真をご覧いただける限り、あまりにも美しくありました。ただ一点思うのは、一杯の水を分け合い飲むとしても、3人の喉は、観る方の喉は違うのだ、やや少し、3人はそれぞれの乾きに集中しすぎたかもしれない、と。

あなたの喉は潤ったのか?
あなたの喉ごしに、私が潤うことは無く、私の喉ごしに、あなたが潤うことは無いのだ、と。

ですから、大地に口づけをしなさい。

1/21 宮保恵 アンドレ・バン・レンズバーグ
写真 大杉謙治
水のトーテム 塚本よしつぐ

(撮影:いずれも大杉謙治)

「水のトーテム」20日 川津望+坂本美蘭公演ご報告

(撮影:月読彦)

20日の夜は川津望氏、坂本美蘭氏の2人の表現者がともに身体と声と装置を駆使しながら、水のトーテムの空間を過剰なまでに満ち溢れさせ、新たな物語を開きました。今回は演者を含む複数の報告者による文章で、その時に生じた現象の様々な側面をご紹介いたします。

まずは演者の一人でもあった川津望氏のことばを。

DUOで感じたことは、偶然性をも味方につけてやることの厳しさでした。そして、物語をお客様に伝えるためにはより自分、一緒に表現するパフォーマーの所作、考えた演出、アドリブにこそ具体性や意味性を過剰につけたほうがよいのではないか、ということでした。ラスト、人魚がわたしに寄り添い一緒に眠るアドリブは、あの時にしかできなかった表現だと思います。わたしが床に叩きつけた豆腐が荒涼とした風景を通って、やさしさへと変換され着地する。果たし得なかった誰かの思春期のパラレルワールドが、美蘭さん、塚本さん、月読彦さんと作り上げられたことはうれしかったです。

豆腐を持った植物鳥は外へ行くことができ、コンビニへ実際に行って買い物までできる。人造美女は水のトーテムの城で人魚に変容し、外へ出ることができない。実は植物鳥は、植物博士306号であり、実験を重ねた結果、自分もキメラとなってしまったのだった。それでも植物鳥は人魚に外を教えるために、木枠の戸を開けて外部を示すのだった。ウィダーインゼリーを人魚が飲み、塚本さんがOHPで人魚の胃袋の中を表現する。植物鳥は水のトーテムの入っていない鉄の枠組みを上半身に取り付けるが、水のトーテムにはなれない。人魚は植物博士306号だったものに寄り添い、ふたりは眠り続ける。そんな物語でした。

(撮影:月読彦)

(撮影:坂田洋一)

(撮影:月読彦)

「水のトーテム」19日 秦真紀子+広沢純子公演ご報告

(撮影:柴田正継)

金曜日の夜、塚本氏によって.kitenに築かれたトーテムに内包された水は、秦氏、広沢氏の身体、音、行為とともに空間を満たし、そこを深い深い場所へと変えていったようです。空間の変容、そうしてあらわされるもの。立ち会った川津氏はそれを以下のように報告しています。

水のトーテムは青い紐につながれた。木枠の内側には広沢純子が灯した蝋燭の火がOHPを通して揺らぐ。わずかな明かりのなか、秦真紀子は青いパーカーのフードを目深にかぶり、青の短パン姿で椅子に座った、秦にも青い紐が結ばれている。広沢のアコーディオンがふいごのように風をおくり、水のトーテムは洗われていった。 18世紀のイタリア、最も名の知れた修復師にして贋作家であったバルトロメオ・カヴァチェッピなら、秦を修復師と名指すかもしれない。「自らの手法を完全に捨て置く(※1)」かのようにこの日の秦は動きを限定させながら、青い紐を引っ張ることで水のトーテムを上に吊るし、木工ボンドの注入されたシートの一部を剥がした。秦の担う重力と、塚本の水のトーテムのそれは、広沢の奏でる3拍子調の旋律により領分を接して踊る。それはワルツよりも激しており、まるでアルプスの渓谷の奥でたのしまれるダンスのようだった。美術史家マリオ・プラーツは「ハイド氏の顔から少しずつジキル博士が透けて見えてくるのとそっくりに、贋作の仮面の下から贋作者自身の顔が少しずつ現われてくる」と言っている。 秦と広沢が本公演で過剰に修復したかったものは何か。塚本がシャボン玉を吹くと、秦は水のトーテムのひとつから水を浴びた。水のトーテムの「水」が私を、私の技法を模倣していると表現したように思われた。作品介入者という観点もまじえ、秦は塚本の水のトーテムの手法を尊重しながら、うす青く皮膚に透ける静脈/身体を徹底させ、また広沢もそんな秦の手法を尊重しながら空間や秦の身体の並行世界を奏することに徹底した。作品介入者による修復が徹底されることで生じる「贋作」という問題を逆照射させることで、秦真紀子と広沢純子はそれぞれの表現をも修復したと言えるだろう。

(※1)保存修復の技法と思想 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで 著:田口かおり 平凡社より

 

(撮影:いずれも柴田正継)

「水のトーテム」先週末の公演、そして新ブッキング公演につきまして

「水のトーテム」、先週末も3つの刺激的な公演が行なわれました。

金曜、19日は秦真紀子+広沢純子公演
土曜、20日は川津望+坂本美蘭公演
日曜、21日は宮保恵+andré van rensburg公演

上記3公演に関しましては近日中に報告記事をアップ予定です。どうぞお楽しみにお待ち下さい!

そして25日(木)に、急遽

今井蒼泉+罪/つくよみ+川津望+塚本よしつぐ

という何か過剰なものを孕んでいるであろう公演がブッキングされました!
開演20時より。是非目撃しにお越しください!

12~14日公演ご報告、そして19日公演のお知らせ

昨日今日とバタバタと「速報じゃないよそれ」というペースでの公演ご報告となりました。サイト管理人は海外出張中なのですが、国境を超えたら突然サイトにアクセスできなくなるトラブルが発生したせいです。電子データに国境はないとか嘘ですね! (国外からのアクセスを弾く設定を変更してもらったおかげで今は無事更新できます)

というわけで、更新が滞っている間も着々と公演は行なわれていました。

12日は町田藻映子氏を迎えて
13日は山田花乃氏を迎えて
14日は生野毅氏を迎えて

各公演についてはそれぞれご報告を当サイト内に掲載しています。

そして明日1月19日は広沢純子+秦真紀子を迎えてのパフォーマンス。この日は音楽とダンスがともに水のトーテムの世界に立ち現れます。20時~。入場料2000円。是非ぜひお越しくださいませ。

「水のトーテム」14日 生野毅公演ご報告

(撮影:天沼春樹)

14日の公演に迎えられたパフォーマンスは朗読・声の生野毅氏。水のトーテムのもたらす空間の中にちりばめられた本、言葉の塊。そしてそれを読みいだし場に与える声。公演の模様を川津望氏はこう伝えます。空間に生じた”揺れ”の共有のよすがとして。

「しばらくしてその女の子の首は楽になりました。私はそれを待っていたのです。そして今度は滑稽な作り顔をして見せました。そして段々それをひどく歪めてゆきました。
「おじいちゃん」女の子がとうとう物を云いました。私の顔を見ながらです。「これどこの人」「それゃあよそのおっちゃん」振向きもせず相変らずせっせと老人はその児を洗っていました。(※1)」

生野毅の声帯をわたしは見ることができない。息がとおると確かにふるえる、おののきそのものはいつも気配だ。W・H・ホジスン「闇の声」は「魂の内と外に、目に見えない漣ーさざなみーが立つ……(※2)」、私とも他者とももはや呼ばれないものの間にある敷居の物語といえるだろう。敷居はまたがれることなく、漣と漣は分かたれたまま、ふっとひいて二度とまじわることはない。生野の声は一文字一文字に黙とうを捧げる色を含んで、耳へ寄せて来た。たとえばテーブルの上のランプ、海岸線に打ち上げられた死後の生、まだ息をしているものなど。さまざまの漣が同じ空間を装いながら砕かれずにあり、生野の声が大きく、また小さくなる。漣の外に波の音、生野のその声帯が見えないことこそ怪異だとわたしは感じた。
子どもにとっては特に、花を藤と名指すまで、遊べはしても世界を共にできない呪があるらしい。「闇の声」で生野はただ一度共有する告白があっても、名指されないこと、世界を共にできない怪異の切なさを、全身で引き受けたと思う。声の調子には時に独特のユーモアが滲み、いつしかわたしの感覚も子どもに戻っていた。生野の語りから透かして見える空間は、ここがどこであるかという問いを無効にしてしまう。OHPによる塚本よしつぐのパフォーマンスも生野の指摘にあったように、ロールシャッハテストのような様相を持ち、眠れない幼少期の夜に布団から見あげる木目の役割を果たしていた。
休憩をはさみ、生野の語る水にまつわるものごと、哀悼から切り離せない、隠されてなお憶えていること、忘れるのでなく、今の問題となすことは、漣からあらわれた貌、その切実な願いの投擲だった。顔の表情や身ぶり、関係性を問わず限られた語彙に侵食されつつある現在に、生野のつくった波紋は、見えることなくふるえる生そのものが、名指しえない、息のとおる道であると知らせてくれた。

(※1)「橡の花ーー或る私信ーー」梶井基次郎(http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/431_43526.html)

(※2)生野毅の言葉より

(撮影:いずれも天沼春樹)

「水のトーテム」13日 山田花乃公演ご報告

(撮影:川上直行)

13日はパフォーマーとして山田花乃氏を迎えての公演。愛と、そして未来と過去双方へ延びる記憶を思わせる時間となった模様。以下、本企画総合ディレクターたる塚本氏による報告。

寛容さと愛を実践して生きてゆきたいのです。水のトーテムの奥深くまで降りて行こう。山田花乃さんとの公演はまさに、寛容さ、そして愛が全てでした。

現時点の、永遠の山田花乃。

愛は時間軸を持って語れるものではありません。時を簡単に超えて行きますので、出来事は10年前のことも10年、20年先も簡単に飛び越えて来ます。ですから、ここで書かれるレヴューも公演もそうであったように、一続きの、一息の塊です。「愛に溢れていた」その一言であり、同時に30年先の山田花乃の踊りも含まれているのです。

一期一会の踊りに始まりがあるとするならば、world’s end girlfriendの耽美とともに始まり、終わりがあるとすれば、 Spiral Lifeの甘美とともに終わりました。la! neu ?の”Goldregen”というアルバムから抜き取られた曲が挿入されましたが、無音も含め全ては一つの塊でした。同時に、それらは直線に並んだ時間ではない「永遠」でした。

耽美なメロウと暗闇を纏い、大きなガーベラを車で曳きながら現れた黒服金髪の山田花乃は未だ無名の女であり、喪に服すように静かに虚ろに歩む。表情は泣くでもなく、弔うでもなく、空を食べるように息をする。または名前を思い出そうとしていたのかも知れない。目を合わさずにいたガーベラが大きな存在感だけを持つことに気づき、内心驚く。または、始まりはまだガーベラが山田花乃であったのかも知れない。ガーベラに顔を埋め、無名の女は金髪を無造作に脱ぎ捨て「山田」を取り返す。
彼女が舞台上で2回「山田の早着替え」を行い、花弁がはらはらと解けていくように、または、掴みかけた手を放つようにするりと離れていく姿は、事実「山田」が想像していたこととは別の方法で着替え損ねるのも「愛」でした。

ピンクのワンピースを纏ったのはまぎれもない山田花乃であり、彼女の色彩に少しずつトーテムが馴染んで行く頃、彼女は野原に出会う蜜蜂の群れであり、群れからはぐれ、海に出てしまう1匹でもありました。
ガーベラの茎をオールに見立て海原を彷徨い、足を痛めた母を思い出し、杖をつく。(そう、思い出すと、彼女と初めて会った時、彼女は大層に骨折して松葉杖をついて現れたのでした。あの時は上半身だけで踊ってくれたのですね。2005年、あの時の花乃ちゃんも居たのかも知れませんね。)

中盤の山田花乃の踊りはエネルギーに満ち溢れます。運動、純粋なその熱は一体何処に行くのでしょうか?彼女の体から生成される息遣いは彼女の摂取したエネルギーを表現の愛に満たし永久に灯す。夢中で飛び跳ねるダンスは永久機関でした。
それでも尚「あれ、、あれ、、」と漏れる言葉は彼女の踊りの引き出しを開け、探し回って、全てひっくり返して見つけたその踊りは20年先30年先または10年前、20年前に踊られたダンスであり、ここで一期一会で初めて生まれた表現への福音です。

既に表現の愛を知る私たちは、2度目の「山田の早着替え」がいつかスルスルと服がはだけ永遠が生まれ変わり続けることをも容易に想像しうるし、現時点の山田花乃と20年先の一期一会を、今この目の前に焼き付けることができるのです。

最後はトーテムの中の水玉を仰ぎ、煌めきの中で降り注ぐ水玉の光に満たし、トーテムの中に身を寄せて終わります。その唯一決められたシーンに向けて、時間は先へ先へと進んでしまうことを、儚くあるが、しかし、立ち会えた全ての人たちと、表現の愛を知る人、知ろうとする人たちは、そのことがいつでも目の前にある『永遠』だと知っているのです。また、何度でも出会いましょう。

永遠の山田花乃へ。

(撮影:ともに川上直行)