(撮影:北里義之)
塚本よしつぐのインスタレーション展『水のトーテム』のなかで、舞踏家の久世龍五郎とトランペット奏者の川村祐介が共演した。今回塚本はイベントの人選と組合せも担当、さらに正面の壁に作品の入っていない額縁を掲げ、公演中にプロジェクターを使って額縁を含む壁面に映像投影をおこなうライヴ・インスタレーションもおこなったので、本公演も実質的にはトリオ・セッションとしておこなわれた。
室内の壁や天井の全面には、内側にべったりと接着剤を塗ったブルーのビニール袋が、煉瓦を積みあげるように規則正しく貼りめぐらされ、下手コーナーの床面には、半分ほど水が入ったビニール製のキューブを積みあげて小さな空間を囲い、池のようにもプールのようにも見える空間を形作っていた。正面の壁に投影される映像も、水面に油や絵具を流してできる文様を使ったキネティックなもので、インスタレーションは水のイメージを多層的に塗り重ねていくものになっていた。狭いキューブ内に作られた畳一畳ほどしかない空間を使って踊った久世に対し、反対側の壁を背にして床に正座した川村は、踊り手の動きに直接的な反応を返すことなく、またなんであれメロディーの印象を残す演奏もせず、風が吹きわたるようにして楽器を鳴らし、いまここの空間を全身で感じながらその全体を支えるようなサウンドを間歇的に出しつづけるパフォーマンスをおこなった。即興的なセッションというと、どうしても対話的な展開がイメージされがちだが、川村の演奏は、サウンド・インプロヴィセーションと呼べるような、空間そのものを浮かびあがらせる響きの音楽であった。
空間に働きかける川村の演奏とは対照的に、水のはいったビニールキューブに囲まれた狭いスペースに自身を閉じこめた久世の舞踏は、動きよりも形を重視し、空間にパズルのように身体をはめこんでいくもので、即物的というのとは違う、あえていうなら幾何学的にとらえられた身体というべきものだったように思う。つねにみずからの身体に意識を集中しながらおこなわれた踊りは、膝を屈する、背中を丸める、尻と足先ををあげてうつぶせに寝そべる、床にすわる、倒立して両脚をまっすぐうえにあげる、壁に面して立つといった動きを、ひとつひとつていねいに経由していくダンスだった。脚が床からゆらゆらと生えるようにのびて動く倒立の姿勢や、不安定に身体を浮かすようにしてうつぶせた上体のしたから、逆さになった顔がのぞくといった形を例外として、ごくささいな日常的動作が、非日常の身体の形と同じ密度と集中力をもって踊られていった。
ちなみに川村の音楽は、.kitenのようなホワイトキューブの空間よりも、サイトスペシフィックな環境のなかに置かれるとき、その本質を開示してくるように思われる。空間性よりも場所性が際立った環境を響かせることが、身体をその場に溶けこませることにつながるためだが、正座して臨んだ.kitenのセッションでは、身体を殺すようなニュアンスが生まれてしまっていた。一方の久世の舞踏も、グラスホッパーのジャンプを反復するというような、即物的な動きをタスクにした場面構成がなされるときに彼らしさが前面にあらわれるように思うのだが、今回の設定では、そうした自由を行使することも望めなかった。
演奏家の身体や、演奏家が奏でる響きと踊りとの対応関係はなく、壁面に投影される塚本の映像が、それらふたつの身体をつなぐということもなく、公演はディメンションを違えた個々の風景がそれぞれに流れていくというものだった。ある意味では、そのようにすることによって.kitenの極小空間をもっとも広く使ったパフォーマンスともいえるだろうか。最後の場面で、キューブのひとつを右肩に乗せた久世は、キューブで仕切られた結界の外に出てくることでクライマックスを作った。外の世界に歩み出た舞踏家は、それでも演奏家と対峙する様子はみせず、川村の前を静かに通過してステージの外へと消えていった。静かな「水のトーテム」の空間に、三者三様の身体が静かにインスタレーションされた公演だった。■
(観劇:2018年1月27日|執筆:2018年2月4日)