【公演情報】11月24・25日《なづき『液晶線』》についてー川津望氏インタビュー

いよいよ今週末の上演となる《プロジェクトなづき》ふたつめの本公演『液晶線』について。企画の中心軸となる川津望氏のこの公演に対する言葉を、制作の伸枝氏が引き出してくださいました。

ご来場前に是非ご一読ください。そしてお読みになって心惹かれた方、是非今週末の.kitenにお越しください(公演情報詳細はこちらを、登場人物の紹介はこちらをご覧ください)。

江東区東陽町にあるアートスペース「.kiten」からうまれたアートプロジェクト「プロジェクトなづき」その世界観を提示している共同主宰川津 望氏に、2018年5月12日より5回の習作公演を経て8月に公演された「なづき本公演」をもとに、その話しを伺った。

●———「プロジェクトなづき(以下なづき)」はアートスペース .kitenの月読彦さんと川津さんを中心に進行中のパフォーマンス プロジェクトですが、「なづき」という名前にも表れているように脳をテーマとされていますね。習作公演、また本公演の冒頭で、なづき(脳)が指令を出しそれに反応する演者達。という表現に「脳」の機能というものを感じたのですが、「脳」以外にも様々なイメージが混在しているように見えました。 脳以外のテーマがいくつも組み合わされている、ということでしょうか。
川津氏:というよりも、それは「ポリフォニー」ですね。

●———ポリフォニーですか。
川津氏:そうです。例えば、お互い遠いところにいる、出会ったことのないたくさんの人々がいて、そのひとりひとりが口ずさむメロディがあるとします。そのメロディを口ずさむ人々それぞれに担っているもの、背景がある。そうしたものが一つの脳の中を駆け巡っているイメージです。
一人が口ずさんでいる歌を聴いているだけでは一つの歌でしかないけれど、それが頭の中にたくさん流れることで全く違う音楽に聞こえてきてしまう。また、そのポリフォニーの内ひとつの歌に意識を向けるとまた別の聴こえ方がする。
今回なづきの本公演を考えるときに、詩の文脈で何か形づくれないかと思って、月読彦さんといろいろ話していたんですね。
音楽と詩というものはその歴史的にも重なっていて、同じ泉のところから来たものだと思うので、私のバックボーンに音楽があることもあり、切り離せないものです。

自分の詩のスタイルですが、全く接点のないようなもの・規模が違うもの——例えば宇宙・楽譜・隣のあの子・果物なんかを一体として浮かび上がってくる像、というものがあります。 そこを一番出したかった。

例えば向こうから女の人、おばあさんとかが歩いてきて「こんにちは」と言われた、でもそれに対して「こんにちは」とは返さなかったけれど、こちらは夕陽を見て、夕日に対して「きれいだね」と言っているかもしれない。そこには女の人、もしくはおばあさんが夕陽を見ているか見ていないかはわからないけれど、確かに存在している。同じ空間にいながら、同じものを見ている、もしくは見ていない。しかし確かにあるものの影響、隠されているものの影響を受け、それらへ自身をかえしている。
そういう世界の構造を作りたかった。
そして混然一体としてあるその中で、出会う人々はその内にすごくいろんな多様性を含んでいるんです。

●———なるほど「イメージが混在している」ことそのものが脳の内で起きていた。
脳という一つのテーマと共にもう一つ・・・ 三千世界という言葉、劇中で何度も登場する良寛さんの歌から宇宙・宇宙観というものを強く感じました。 なづきにとっての宇宙観とは他にどのように表されているのでしょうか。
川津氏:本公演に「みちあふち」というキャラクターが登場しましたね。
「みちあふち」というのは「コロス」と「三千世界横丁」の劇中人物「目次」などと話ができる境界線上にある人なんです。
コロスはコロスの世界があって、三千世界横丁の世界で目次は、同じく劇中の「ポウ・ポー」と同一人物という揺らぎの中にいるという二重構造のなかにいるわけなんですよね。
やはり多様性を含んでいる。
やましんさん(山崎慎一郎)は、「マリアンヌ」であったりコロスの一員として話したり。
一人の人物なんだけど、さっきのポリフォニーの話で言うと、一人の人物の中に歌が何個も入っていて、ここの歌のパートを聞いてみようかなと思うとそれが聞こえてくる。
またパッと耳を元に戻すと別の音楽に聞こえてくる。
一人の人の中に鳴り響いている音楽の中にいっぱい歌が入っている。
そういう宇宙観というのは意識しましたね。

●———以前なづきの公演のあとにお話しいただいた、入れ子構造になっているということもその宇宙観に基づいているのですね。「あは雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) またその中にあは雪ぞ降る」というような。
川津氏:また、堀内薫(今井歴矢)という役が、目次に傘を託すのですが、ひろげて渡しましたよね。その傘の熱で雪に象徴される時間が溶けるわけです。
そして、滴りますよね。それが目次の言葉や感情というものとシンクロしています。
「淡雪……」から始まる、目次くんの最後のセリフなんですが。
私が良寛さんの歌を受けて作った返歌になっています。

淡雪、溶けた雨粒ひとつぶひとつぶは時計なんです。それがてんですきに時をすすめるものだから、よるもひるも色んな方向にねじれてゆきます……どんな世界や名前だって引きちぎられそうになりながら、持ちこたえている、丁度ぼくみたいにそんなフリを必死でしている。だから舌打ちしているんです。ぼくも時計だから舌を歯の前やうしろでチッチと鳴らしてみるんだけれど、やっぱりおじいちゃんの時刻は鳴らせない。おじいちゃんも淡雪でした。ぼくはだいじなだいじな一滴をうしないました。

途方もないことですが、小さなものの中に大きなものがある。大きなものの中にものすごく微細なものの震えがあったり。またその一つ一つの微細なものの中に大きなものがあったりと、無限に続いていく。そしてそれぞれに時間があってバラバラに時を刻んで、変動していくわけです。

その時間全部、自分の心身に入れたら人間は多分生きられないと思います。全部知覚しちゃったら。
そして息は出来なくなると思うんです。
本公演のラストシーンというのは 米倉香織さん作曲の「breath」息というタイトルの曲で締めくくられます。 そこからの世界は、言葉というものに集約されない音楽の世界に、ある意味バトンタッチして、みなさんに何かを受け取っていただきたく、そういう形にしました。

●———ありがとうございます。最後に今月(11/24(土)、25(日))に控えている、なづきプロジェクトの公演『液晶線』についてご紹介いただけますでしょうか。
川津氏:液晶線は私が先日上梓した詩集『ミュート・ ディスタンス』 の言葉を中心に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』からも一部引用して、コラージュ的に再構築してつくった物語です。ですから日常的な会話のハコビとはかなり違っています。その辺のさじ加減は月読彦さんが調整してくださっていますが、テンポのいい会話劇ではなく、一つ一つの言葉がうねりながら前に進んでいきます。そのあたりの面白さを聞いて頂けるとありがたいと思います。

●———物語的にはどのような内容でしょうか。簡単に説明していただけませんか。
川津氏:ある困っている男がいて、その困っている男を困った奴だと罵る男がいる、その二人が液晶線という電車に乗って、死んだ娘とその娘と瓜二つと思えるような女性をめぐって会話しながら、どこかへ行く話です。バッドエンドハッピーエンドという風に割り切れない、内田百閒の作品を彷彿させるようなどこまでも引きずり込まれていってしまうお話です。落としどころは「そこか!」みたいなものが好きな人にはオススメですね。前回の『なづき』とは違ってシビアな話ですが、そこを楽しんでいただければと思います。

(インタビュアー:伸枝)

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