日本文化の根底を模索する―「Performances & Exhibition 浜田剛爾展」(評:宮田徹也)

2013年10月17日(木)-27日(日)に.kitenで開催された「Performances & Exhibition 浜田剛爾展―京都大学西部講堂 1989−1993」は、細分化され尽くした今日の芸術の動向に対して、大きな波紋を投じる展覧会と公演になった。
この企画は展示、浜田剛爾と関わりがあったアーティストの公演、関わりがなくともこれからのアートを背負うアーティストの公演、浜田を知る者、知らない者のトークといった、5つのセクションが互いに連鎖し、交錯して「現代」という一つのアーチを描いたのであった。
展覧会は西部講堂公演の写真のスライドと当時のフライヤーという簡素なものではあったがバブル景気に浮かれる雰囲気は一切なく、芸術を探究する真摯な姿勢が伺われた。
浜田剛爾は「パフォーマンスとは何か」を追求した。その為、概念を前面に出し、身体を酷使することだけがパフォーマンスではないことを示した。それに応えるように、水嶋一江は紙コップを使用した音楽の視覚的ライブを、武井よしみちは身体とペインティングを交えたスタンダードなパフォーマンスを、ヒグマ春夫は映像と音楽を融合させた公演を見せた。アコーディオンの岩城里江子と唄いの長谷川六の公演が台風によって中止になったことは残念であったが、三者は浜田同様、どのジャンルにも収まらない「現代美術」の発想を主張した。
浜田と直接関わりがなかった者達も、同様に分類できない姿を晒した。成田護は土方巽派舞踏と音楽の裏表一体化した公演を見せたが、照明、絵画にも深い造詣を携えている。ヴォイスを主体としている富士栄秀也は今回、seido(音具)、坂巻裕一(ペイント)、三浦宏予(パフォーマンス)と共に、予定不調和な演劇的
世界観を垣間見せた。ダムタイプに所属していた川口隆夫は今日、世界的に有名な大野一雄の舞踏を完全コピーしている。今回もその片鱗が光を放った。浜田と同時期の暗黒舞踏、アングラ演劇の潮流は地下水として脈々と流れていることが明確となったのである。
及川廣信と鴻英良というベテランの対談は当時を振り返るものではなく、現在の二者の研究を報告するものであった。演劇、ダンスだけではなく、社会学、政治学を通り越して人類の発生に至るまでの、文系/理系を超えた知の対話が果てしなく続いた。浜田と共に京都大学西部講堂のパフォーマンスを企画した長谷川六は、当時の状況を詳細に報告した。その時気付かなかったことが、振り返ると理解できてくる。途中で批評家の松永康を交えた対談は、二者の美術に対する精密な視線が明らかとなった。
華道家の今井蒼泉と.kitenを運営する東京パフォーミングアーツ協議会理事長の奥野博による対談は、浜田を知らないからこそ、自由で広大な世界にまで踏み込んでいった。私もまた、浜田を知らずとも日本のパフォーマンスの動向と変遷を報告した。私は日本近代美術史で修士号を取得し、修了後にダンスの批評も論じ、映像学会で主に日本の1960年の動向の発表を繰り返しているが、パフォーミング・アーティストの先行研究は殆ど存在しない。驚くべきことは、浜田の活動を書いた文献が全くないことだった。それでも現在50歳台後半からのアーティスト、画廊主、キュレーター、批評家に浜田を知らない者はいない。その時に、浜田を語ることが出来なかったことが一つの批評として成り立っていたことを、私は明らかにした。同時に、本格的な浜田剛爾研究の必要性を感じた。
今回、重要だったのは、80歳台から30歳台という、年台を超えて様々な立場の者達が集ったことではあるのだが、それほどまでに、今日のアートは細分化されている。喩えダンサーが美術作品を前にして踊ったとしても、それはコラボレーションに過ぎず、今回のような定義できない何かを生み出そうという発想は持ち得ていない。日本の芸術は近代以前、例えば襖や引き戸に描かれるといった、絵画では定義できない姿であった。能や歌舞伎も当然、現在でいうダンスではない。浄瑠璃、盆栽、華道や茶道、雅楽という、他の国では絶対に実現されていない文化も存在する。そういえば浜田剛爾が至りついたのは、世阿弥の『花伝書』であった。浜田剛爾のパフォーマンス、浜田に感化され刺激され影響を被った者達は、もしかしたらそのような日本の文化の根底を探っているのかも知れない。
今日、新しいアートの動向は次々と生まれ、研究が追いつかないことが現状である。このような浜田剛爾を、忘れられた存在にしてはならない。浜田を忘れることは、日本の文化を見失うことになる。それは何も大掛かりな費用と会場が必要なわけではなく、ワンルーム程度の会場である.kitenで行うことが可能であることを、今回の展覧会は証明した。真の現代美術に、時間と場所は関係がない。今回の展覧会は始まりに過ぎない。私はこれからも浜田剛爾の展覧会がここ.kitenで継続し、その小さな種がやがて大きな実を結ぶことを、大いに期待している。(宮田徹也/日本近代美術思想史研究)

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