批評◎『GUU―偶―くだをまく』(評:宮田徹也)

『GUU―偶―くだをまく』(2013/10/29 アートスペース.kiten)評

今でこそ当たり前のスタイルとなったが、畳に座り、小さなお膳に面して食事をとっていた私達にとって、高い椅子とテーブルによる食卓とは、ヨーロッパの深い森のように底知れない世界観と歴史観を感じてしまう。豪奢なデザインの食器と過剰な数のグラスは、富、名誉、志向、嫉妬と言った欲望を象徴する。

この公演はそういった欲望の「果て」ではなく、「裏腹」に焦点を当てている感があった。右側に大きなテーブルと小さなテーブル、左側には小さなテーブルが設置され、右には乱雑に食器とグラス、口紅とレタスが置かれているが、ワイングラス3つ、左側のテーブルに1つあるところを見ると、4人が食卓に向かうことを想起させる。

出演者が二人なのに一人前でも二人前でもない四人前の設えに、ゆとりが生まれる。後方に吊るされたベニヤ板ほどの三つのアクリル板は、空間を閉塞的にせず、ひろがりを持たせる。これら舞台装置によって、我々の「日常」とは虚構であり、本来の「自我」に到達すると、そこには何があるのかを考えさせてくれる。.kitenが最大限に変容した。

暗転により公演が始まる。二人は二つのテーブル間に設置された椅子に座り、前を見据え、微動だにしない。同じ下着を着け、乱雑に顔のみ白塗りしている点は共通し、深谷は青、佐藤は黒のワンピースを身に纏っている。恐らく、深谷がポケットに録音機を入れて移動した「日常」生活の音が流れる。しかし、ここにも日常など存在しない。

佐藤は伏し目となり涙を流し、深谷は佐藤から顔を背ける。かといって、座ったままの視線の運動や沈黙といったパフォーマンスや、踊らないことによって踊ることが、この公演の軸となっているのではない。開始から17分経って、深谷は座ったまま上半身を沈め、佐藤は立ち上がり右のテーブルへ向かう。

この後二人は触れ合うことも向き合うこともなく、日常の動作でも非日常のダンスでもない「何か」を続ける。深谷は完璧なまでに意味を剥奪させた。ポストモダン・ダンスやコンテンポラリー・ダンスは、近代以後、現代であってもダンスを引き摺る。動体証明は、真に今日のダンスと向き合って、いま、ここで何をすべきかを直観として見せる。

佐藤の動きは未だここまで至っていない。未だ自分に染み付き、纏わり付くダンスを、拭い去ることが出来ていない。しかし公演が進むに連れて佐藤から、徐々に無駄なものが削ぎ落とされている。重力の動きに従って、いらないものがどんどん落ちていく。ダンスさえも。すると何時か、佐藤は自らに戻ることが可能になる。

二人が擦れ違い、交差し、遠くで向き合うことによって、一時間の公演は終了する。二人は同化することも離別することもなく、しかし他者で在り続けることは無かった。それはむしろ、正子とペチカという個人すらも放棄し、新たな世界=モダン以後の現在に向けての投棄であると解釈することが出来よう。

我々は本来、日常=非日常、個人=全体という世界に生きている。日常であることが実は日常ではない。非日常に埋没しても、日常から逃れることが出来ない場合もある。日常に居るからこそ、日常の本質が垣間見えることもある。自己と他人の区別も同様であろう。我々は日常≠非日常、個人≠全体という近代が捏造した分類を乗り越えなければならない。

宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

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