批評◎GUU-偶-Vol.③(GUUシリ─ズコレクション)『スネの傷をめぐる2つのソロ』(評:宮田徹也)

GUU-偶-Vol.③(GUUシリ─ズコレクション)「スネの傷をめぐる2つのソロ」8月19日

GUUコレクションは動体証明の深谷正子が監修している。深谷は当然、自らも舞うのであるが、コレオグラファーとしても活動している。その際、絶対的で完璧な振付を施さず、ダンサーの身振りを大切にし、ある程度の自由を尊重しているので、監修者としても、徹底的な舞台を構築しているとは思えない。ダンサーに任せているはずだ。

この日は深谷のカンパニーに長く携わる玉内集子と、近年深谷と関わりを持つ佐藤ペチカが踊った。深谷は.kitenは「個人の顔が見えるスペース」であるとしているので、演者と観客が入れ替わることを目論んでいるように感じる。大きな会場では主観と客観にどうしても二分されてしまう。顔が見えることで、内面が透徹することを目指している。

深谷は入口を入って右側に客席を設け、窓を白幕で塞ぎ、舞台左奥下に一基、右手前の上下に一基ずつ計三基の照明と舞台左右にスピーカーを用意し、舞台を形成する。音響と照明は玉内公一が担当した。簡潔な照明により.kitenの白い壁が更に白く清楚に映えるのだが、美術館のホワイトキューブのような、権威的な威圧感は排除されている。

玉内25分、佐藤25分、最後にデュオ的部分が5分であった。始めにj-pop、中盤過ぎて英語のアナウンス、終盤に明るいロックと、二者は全く同じタイミングに流れる同じ曲を背景に、自らのダンスを用意し、改築し、この場で立ち会う者と向き合った。

玉内はこの場で体を「創っていく」感があった。その都度が動機であり、結果を持たない。それを連続するので、物語性が排除される。同じ姿勢で佇んでいても、意識が体を巡り波が生まれていく。そのため表情が生きてくる。フィギールを破棄することによって浮かびあがってくるものは何か。思えば無意味である、体である、メソッドを捨てるポストモダン・ダンスは、そうでないこととそうであることが合致していた。玉内は根底からポストモダン・ダンスと振り分けられる。重力に対する力の使い方が、ダンスのテクニックではないからだ。佐藤が入ってきても、二人は混在しない。やがて玉内は緊張感を保ったまま、退場する。

佐藤の倒れ方がひたすらに美しい。そこには形と意味が存在する。佐藤は立位置から脛ではなく膝を床に打ちつけ、立ち上がるダンスを執拗に繰り返す。肌理が瞬時の中に存在している。それに速度は関係していない。止まっていても、如何なる姿勢でも、常に軸がぶれず、総てが流浪している。この抽象的な行為は、見る者に様々な想いを去来させる。思えば舞踏には五体投地のような、一般では不毛かと感じられる行為を繰り返す場合がある。佐藤には躊躇がある。躊躇には葛藤が内在化する。葛藤には答がない。問いしか存在しないのだ。問い続けることは、現代と向き合う所作である。佐藤は自己に抵抗している。

玉内が入り、二人は互いの背後に隠れる動作を繰り返す。やがて右壁面に達し、二人は体側面を下にして後方壁面に凭れ、うつ伏せになり、再び戻るダンスを繰り返し公演は終了する。

二人のダンスは全く対照的ではないのだが、同じ曲の構成で、連続して立ち会うと、やはり対照的に見えてしまう。しかしこれこそ深谷の監修であり、似て非なるものの本質的な特性を探る機運となり、二人の「いま、ここ」が焙り出されたのではないだろうか。

「人間は端的に単純に、単に直接的に現存しない。彼は恒常的に不断に自己自身の存在とあらゆる事物の存在とに関わる。人間は存在了解の内で実存する。彼は自己の存在と交渉し、自己を煩いつつ、存在するが、それはまさしく反省的な自己関係性においてではなく、世界の全体への開示性からなのである。」(E・フィンク『遊び―世界の象徴として』)

監修の深谷、企画の.kiten奥野博のこれからの開示性に、期待する。(宮田徹也/日本近代美術思想史研究)

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