「水のトーテム」 21日 宮保恵+andré van rensburg公演ご報告

(撮影:大杉謙治)

過剰、のあとの、静謐。潮の満ち干、波の呼吸のように。
21日、「水のトーテム」は宮保恵氏、そしてAndré van Rensburg氏を迎えて、また新たな表情を展開しました。この日の報告は塚本よしつぐ氏。

宮保恵
アンドレ・バン・レンズバーグ

水のトーテムの公演をほぼ全部観賞している宮保恵にとって、今回の公演は踊りに徹して行こうという決意があったことでしょう。

何しろ、前日の川津望、坂本美蘭のDUOほどに破壊と創造をし尽くすことよりも、自分の踊りに徹して行く方が彼女のやり方ならば「水のトーテム」に深く関われるに違いないでしょうから。アンドレもギターに集中するでしょうし、塚本の映写もそのような思惑がありました。先ず映写に徹したいのだ、と。

「赤い」トーテムの仄かな
光、8mm映写機の上映から始まり、映し出される夜景、浄化されたしじまに響くアンドレのギター、ゆっくりと歩み出る宮保、その始まりからすでに足先は床を純度の高いダンスでならしていく、

床から闇、または
壁から光へと交差して行く身体、アンドレの包み込む音の粒と8mm映写機の音障は空間を隈なく満たして行く、宮保の衣装は薄赤紫のペイズリーを照らす仄かな赤のトーテム越しの光、光の凝縮した闇を解きほぐすように舞う、

衣装の襞が
壁に張り付いた光を浮き彫りにする、投影された具象、月、街灯、高架橋から俯瞰する赤い川、淡い焦点が網膜と被写体の間に水面を作る、アンドレのギターの音の隙間に、時折、映写機の磁石に反応する微細な周波音、

滞りなく進む
8mmフィルムは正転反転を幾度か繰り返し、24齣と18齣を行き来する際、音の違いが宮保の動きとアンドレの和音に作用する、開け放った小窓程の映写から、100号の水彩絵画へと光は広がる頃、宮保も薄赤紫の水飛沫をするりと放つ、

水彩絵画は
20世紀絵画の影響を色濃く壁に映すが、眼底に焼きつく前に横滑りする、既視感は初めて観ることの証左である、既に観たものは一瞬たりとも無く、常に光は闇へ伝播し、同時に闇は光へ収斂する、光と闇は表裏でなく抗うことなく共する、

軽やかさを
保つ水溶性は漂白されたが少し残滓する風景写真に重なり映し出され、身体、音ともに像が何度となく溶ける合う、塚本からの水飛沫の映写、雨、川面、水溜り、青から赤への浸食、宮保の肌に触れる磨かれた床とみずうみの影、

宮保が床を叩く
硬質な音は目で追うことのないアンドレの耳を手繰り寄せる、宮保の濡れた髪、アンドレの指先、塚本の滲む色彩、揺らぎ

やがて宮保の
ダンスが水のトーテムそのものとなり、そもそも水であり、トーテムであるとは一体何なのか、答える間も無く、滞ることなく、淀まず、来るものを拒まず受け流す、床は磨かれ、それでも尚、水のトーテム前半の様々な詩的行為の水脈を、そのアウラを纏い、未だ観ぬ水のトーテム後半のアウラの海を呼び起こしつなげて行く、

水のトーテムを
最も象徴した細部の美しい作品でありました。完成度、抽象度、そして鑑賞の満足度も高くありました。

ですから、お写真をご覧いただける限り、あまりにも美しくありました。ただ一点思うのは、一杯の水を分け合い飲むとしても、3人の喉は、観る方の喉は違うのだ、やや少し、3人はそれぞれの乾きに集中しすぎたかもしれない、と。

あなたの喉は潤ったのか?
あなたの喉ごしに、私が潤うことは無く、私の喉ごしに、あなたが潤うことは無いのだ、と。

ですから、大地に口づけをしなさい。

1/21 宮保恵 アンドレ・バン・レンズバーグ
写真 大杉謙治
水のトーテム 塚本よしつぐ

(撮影:いずれも大杉謙治)

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