胎児のまどろみ、羊水としての水──田辺知美「水のある光景」(評:北里義之)

胎児のまどろみ、羊水としての水
──田辺知美「水のある光景」(観劇日=2016年8月21日)

「水のある光景」に迎えられた多彩なゲスト・パフォーマーのなかでも、田辺知美の舞踏は、場面転換がないという点でとりわけ特異なものだった。これはおそらく、長期間にわたる田辺の「金魚鉢」シリーズで私たちが見てきた、床のうえに寝た姿勢で展開される面的な踊りにも通じているだろう。田辺の踊りを見る私たちは、これまでダンスらしくない動きの日常性や、なにがしかの構成を読みとらせない動きの無目的さに視線が吸引されて、それが章立てのない一場面の踊りであることの重要性を、じゅうぶんに意識できていなかったかもしれない。

田辺のパフォーマンスは、水槽まわりでの踊りを捨てるところからはじまった。下手サイドに腰をおろし、おもむろに水槽への侵入を開始する踊り手。水槽の縁を越して両手を水につけ、指にからみつく草花をはらうようにしながら、腕を沈め、ほどいた黒髪の先を濡らし、ゆっくりと水のなかに左足を入れていく田辺。身体の方向を縦に、また横にと移しかえながら彼女がとった動線は、水のなかに座りつづけながら、反対側のコーナーまで水槽を対角線に横断していくというものだった。反対側のコーナーでは、水槽の縁に頭を乗せ、浮輪に乗って浮いているようなかっこうで全身を弛緩させ、しばし休息の体勢をとる。ふたたび元のコーナーに戻る途中、手にからみつく花や草を身体に乗せると、最後に、赤ん坊をいとしげに抱きかかえるように大輪のケシの花を胸元に掻き抱き、あっさりと立って踊りを納めた。普通ならクライマックスといえるようなこの動きのなかでも、場面は転換しない。

「水のある光景」において、水槽まわりの踊りを捨てたことには大きな意味がある。というのも、それが踊りにとって、水槽のフレームをそのまま(外部を持たない)世界の枠組にすることにつながるからだ。水面に浮かぶ色とりどりの草花は、偶然それに触れる踊り手の身体、あるいは動きそのものを細分化していくことになっていたが、それだけでなく、水槽に「無意識」や「池」のイメージを与えるような、ある深層構造をそなえた垂直の世界を幻想させるものにもなっていた。ここにはコンテや舞踏の別なく、場面の交代を描き出すあらゆる種類の踊りとはまったく別の世界が立ち現われている。おそらくそれは、視覚や聴覚が空間や時間を切り分ける以前にある(はずの)、私たちが盲者になり聾者になることで生きなおされる触覚的世界のようなものだろう。

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