8月28日(日)、2カ月にわたったインスタレーション展「水のある光景」の最終ゲストは深谷正子だった。水槽の周囲の床にはたくさんの小さな鏡が立てかけられ、水槽の底に横たわる数枚は、天井に四角い光を反射している。水に濡れたティッシュの塊が水槽の縁にへばりつき、プラスチック製のつぶつぶ(籾殻のかわりに枕のなかに入っているクッション材)が床に散乱している。最終日、壁の絵や天井のモビールははずされていた。深谷が水のなかで踊るのは初めてのことだそうだ。ブラインドの外からやってくる薄明かりのなか、水槽のなかに立った人影が、バシャッ、バシャッと足で水を掻く場面からスタート。冒頭のこの場面は最後にリプリーズして、ダンスの枠構造をなした。
スティーヴ・レイシーらしきソプラノサックスが切り詰めたシングルラインのメロディーを描き出すなか、一歩、また一歩と、ゆっくりとした歩調で水槽の縁なりに歩く踊り手の動線は、2m四方という狭いスペースを、立ち位置の変化でさまざまに性格づけていくもので、既視感があった。中西レモンが主催していた畳半畳である。タイトル通り、畳半畳を踊り場として共通に課すそのシリーズで、畳を広く使うために、何人ものパフォーマーがていねいにその縁を歩くのを見ていたからだ。この動線のとりかたは、踊り手が、「水のある光景」を、まずは水槽の分割という空間性においてとらえたことをあかしていたように思う。
ゆっくりとした歩行で水槽を時計回りに一周する踊り手。水槽の角々で方向を変えるときに身体の表情を変え、違う方向から来る照明に質感を変えしながら、途中で水の底に沈んだ鏡(に映る自身の影)を踏む際にはあしらいをするなど、細かく変化する身体で序奏部を作っていった。出発点に戻ると、そこから水面に手を伸ばし、膝をつき、腰をおろし、うつ伏せになっていく入水の儀式がスタート。深谷にとっての水は、武智博美や田辺知美が描き出したような死のイメージに連結するより、バプテスマの水、生まれ変わる生命に触れるということのようであった。特に水の冷たさや水面に広がる波紋の動きと感応する身体のさまは、水槽の分割による正確な動きとは別に、彼女のダンスでは表立つことのない、遊戯的な動きを生み出していた。そこからは横寝して足をあげるなどいくつかの形をはさみつつ、水槽にすわって身体を回転させながら動き、再度立ちあがると、水槽を反時計回りに歩きはじめたものの(クリシェと感じたのか)それを中断し、水槽の中心あたりで、また水槽内をランダムに歩きながら、両腕や上半身の動きを使った踊りを展開していった。全体的には、立つ/座る/立つの三部からなるシンプルな構成のダンスだったと思う。■(2016年8月30日 記)
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