みどりにあふれた舞台。奥の白い引き戸の上部に半そでのみどりのワンピース、袖なしのワンピースがそれぞれハンガーで吊るされ、手前の木製のちいさな卓にはコップふたつ。全巻揃わないマンガや、流行作家による以前誰もが読んだ小説が無造作に積まれている。放りっぱなしの洗濯物、椅子のうえとその周辺は散らかったままだ。そして舞台向かってひだりの壁側に、幅のある長いうすみどりいろの布が天井から垂れ下がっていた。そこが主人公の寝室だ。どこにでもありそうな片づけられない女の部屋、もしくは女の頭の中。吉田のゆりは「みどりの群 際限なく生まれてくるそれはわたしを脅かす」とフライヤーに書いている。思考する時、脳内の音声は他者には聞こえない。一方、象は人間には聞こえない低周波音で会話をするという。ならば、『みどりの群』とは何なのか。
とある会社で働く女は、東陽町でぞうを拾って以来、部屋で共に暮らしている。女はぞうに、会社の同僚と沖縄料理屋へ行った時、同僚がソーキそばのソーキをダイエット中だということで女のそばの器に投げ込んだこと、つゆが服に飛んだこと、同僚の交際関係の自慢話にうんざりしたことなどを話した。別の日、女は納涼会で仕事のおそい後輩と一緒の際、CDプレーヤーで後輩のいつも聴いている曲が、実は「聴くとしあわせになれる」という無音の音楽であると知り、びっくりしたことなど聞かせた。実のところ、女にはこころを開いて交流できる存在はいない。どんなに仕事ができても、慕われていても『みどりの群』の女は紛れもなく孤独なのだ。
「みどりは? 」
はじめ喋らなかったぞうが女をそう呼び、どうしたいのか尋ねた瞬間からぞうとみどりの立場は逆転してゆく。みどりの夢に出てくるぞうは、彼女の愚痴の内容を追体験する。みどりはまるでスーパーバイザー(※1)のように現実では起らなかったぞうの創作部分を「かなちゃんはそんなにやさしくない」と伝えた。ぞうはこの夢の中の共同作業によって成長し、やがてみどりを脅かす存在へと変貌してゆく。「代わりに仕事へ行って」「気になるあのひとの気持ちを聞いてきて」みどりのお願いをきくうちにみどりよりも「みどり」らしくなってゆくぞうとは反対に、みどりの孤独は増していった。やがて「みどりと群になる」という言葉をきっかけに、ぞうはみどりの存在まで飲みこもうとする。女は、「みどり」の本質を奪ってゆくぞうに向かって散々喚きたてながらも、せめて「みどりをとらないで」と呻くしかなかった。ぞうに「みどり」と呼ばれるまで女には名まえがなかったように、「ぞう」もまた象だとはひとことも名指されていないことについて思うところがある。「ぞう」はもしかしたら「像」かもしれない。それはみどりの「像」なのか、女の「像」なのか。「マーフィーは動かなかった、人が動物のために動かないように、あるいは動物が人のために動かないように(※2)。」人と動物、そのどちらの特性も先立たせないために女はあらゆる可能性を含んで、変わらない。女の同僚の「かなちゃん」も後輩の「すどうさん」も「みどり」と同じく孤独であり、孤独の「群」の中にいながらも「群に向かない女」たちなのである。
ラストシーンで女はすどうさんから手紙を受け取る。「みどりちゃん、」ぞうを介して受け取ったすどうさんの手紙には、ともだちになれそうな予感と感謝、またみどりちゃんがどんなに素敵なひとだと他者から思われているか、丁寧に記されてあった。手紙に添えられたすどうさんの無音のCDをみどりちゃんが聴いているうちに、ぞうはうすみどりいろの寝室へ立ち入ることなく、引き戸の外へ出て行った。.kitenのスピーカーから音楽が流れはじめた。客席のわたしにはもちろん聴こえないが、もしかしたらすどうさんのCDの曲は人間には聞くことができない象の語らいなのかもしれない。実際に.kitenに響く音楽が客席側から聴こえてくる効果も相まって、そのように思われてならなかった。
ぞう役の山田花乃の自然体な役作りと無垢な踊りに好感が持てた。そして何より、吉田のゆりのぶれない演技と蛇口をひねれば出てくるような語りの面白さは、特筆すべきことだろう。
(※1)スーパーバイザー:監督・管理・監修を担当する人物。また監視する主体のこと。
(※2)サミュエル・ベケット著 川口喬一訳『マーフィー』(白水社) p.193から
編註:
『みどりの群』2017年8月4日および6日に上演
作:吉田のゆり
共同演出:山田花乃(踊り)、吉田のゆり
みどりの群/際限なく生まれてくる/それはわたしを脅かす