他者のなか鳴り響く自分の音~古沢コラボレーションシリーズを終えて~(川津望)

.kitenにおいて7月11日からの毎週火曜日、音楽家古沢健太郎と踊り手による「クラウド・チキン 古沢コラボレーションシリーズⅠ~Ⅲ」が開催された。

はじめに古沢健太郎の音楽に関して私が覚えるところを少し。アンビエント、ノイズ、ドローンそしてフィールドレコーディングなど駆使し、音の出自を限界まで消し去る作風で楽曲制作に打ち込む。古沢にとって音と音は縦や横で結びつけられた関係ではない。つまり西洋音楽的法は持たないということだ。音は音楽家にとって傷/エクリールである。一方、既に起ったもの……編集可能な過去の痕跡としての音でなく、その動きつづける状態や身ぶりを古沢はいつも担って来た。

シリーズⅠで古沢は罪/つくよみというひとつの世界と出遭った。月読彦によるインスタレーション「クラウド・チキン」が輝きまたうす闇へ沈むはじめの10分間、踊り手は椅子に座ったまま微動だにしなかった。音楽家の即興は「動かない舞踏」と対照的な空間を探ろうとしていた。音響と古沢の視線の行方を追うかぎり、彼からは内的な激しい矛盾とたたかっている印象が見受けられた。古沢の準備、調整した音がどのようにさし宛てられても、罪/つくよみの上体はやや前へ傾いたままジョン・ケージの《4’33”》の譜面上の記号のように音楽家自身をも巻き込み、空間が舞踏家の舞踏と音楽になっていた。

18日、シリーズⅡで古沢の抱えた矛盾は新しい動きをはらみ、音楽に新鮮な空気を通わせた。シリーズの自己紹介文として踊り手、栗山美ゆきが引用したテキストは谷川俊太郎の「はだか」(『はだか 谷川俊太郎詩集』より 著者:谷川俊太郎 絵:佐野洋子 p.19~p.21 筑摩書房) だ。自分以外だれもいない「るすばん(※1)」と仮定した空間で踊り手は、まるで使いはじめて間もないからだの緊張を「じめんにかじりつ(※2)」くような体躯の粘りであらわした。彼女の注射器へ溜まってゆく血に見惚れる快楽にも似た表現上の好奇心、自身の身ぶりに時としてそむく踊りの陰翳、それは古沢のふくよかな無音によって水を得た魚のような動きへと変化した。栗山の緩急ととのえられた運動の機微も手伝い「クラウド・チキン」が蛇の抜け殻にも見えてくる瞬間があった。

表現者が他の世界と出遭う時、アイデンティティを無数に持つ/どこにも持たない存在の無意味なることにこそ表現による抵抗の力は宿る。25日、シリーズⅢで、日本画家でもある町田藻映子はまず古沢のパフォーマンスがなされる卓へ花瓶などに活けたカスミソウを置いた。私は照明の切りかえによる影の変容にも注目した。月読彦が照明の光を「クラウド・チキン」から音響機材の並ぶテーブルへ移すと、舞台正面に映し出された花の影と横に伸びてゆく踊り手の身体へ観客のまなざしは集まった。「クラウド・チキン」よりも明らかに儚い町田のインスタレーションの軸となるカスミソウ。その属名“Gypsophila”(ギプソフィラ)がギリシア語の“gypsos”(石膏)と“philios”(愛する)を語源とするところや、「幸福」という花言葉にも、美術家としての町田の見立てが息づいていた。今まで他者との出遭いを音楽活動の血肉にして来た古沢。シリーズ後半、順次進行を使うことで抒情性が空間へと吹き込まれた。また肌をしろく塗った踊り手の息遣いが音楽家の旋律的な音の運びに呼応していた。ステージの中央で町田によって引きちぎられた「クラウド・キチン」の一部、それは重力の垂直な力動を思い出させた。

これまで古沢の音は、無記名の揺れとして「わたしは音ではない」とさえ主張しているように感じられた。勿論、その方向性も重要である。「一つの音が響く時ほかの音は黙る」とは古沢本人のことばだが、今回三名の踊り手との邂逅によって他者のなかで鳴り響く自分の音の存在を認識したのではないか。三つのコラボレーションで誰よりも他者の音、生きている音に耳を澄ませた古沢健太郎。恐らく現在、古沢は傷/エクリールとしての音、他者の世界では自分が世界のひとつの可能性として耳を傾けられていることも踏まえ、次の準備に取りかかっているにちがいない。

 

(※1) 谷川俊太郎 「はだか」より

(※2) 谷川俊太郎 「はだか」より

 

編者註:なお、本記事の執筆者である川津望は、8月12日に古沢健太郎とのコラボレーションが予定されている。

 

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