まるで聾演劇のように──yurina「天板のないテーブル」5日目(評:北里義之)

まるで聾演劇のように──yurina「天板のないテーブル」5日目
(観劇日:2016年11月3日)

「坂巻ルーム」「水のある光景」「生成/~なる」など、東陽町のアートスペース.kitenで、今年にはいって進められてきたインスタレーション展示とコラボレーションの組合せは、10月22日(土)から11月20日(日)にわたって開催されるパフォーマンス・シリーズ「天板のないテーブル」に継続され、10組17人の出演者が、従来通り土日休日に公演をおこなうことを基本にしながら、期間中には、今年の6月9日に他界された浜田剛爾氏の追悼公演も特別にプログラムされている。タイトルの「天板のないテーブル」は、実際にスペースが所蔵し使用してきた家具のひとつで、不揃いな脚を持った今井蒼泉作の椅子と組み合わせるなどして、すべてのパフォーマンスの共通条件にしたものだ。今回初の試みとなったのは、与えられる条件の唐突ぶりを補うため、この家具にまつわる「戯文」が書かれたことである。ある朝目覚めるとベッドのなかで毒虫になっていたというカフカの短編『変身』にちなみ、日常性のただなかに出現した不条理な存在の物語が一人称でつづられている。「戯文」は無視することもできるが、5日目の公演に登場したyurinaは、彼女なりの潤色を加えながら、「戯文」が示す物語を忠実に再構成していく一人芝居をおこなうことで、「戯文」を戯曲として扱ったといえるだろう。

音楽がなく、言葉もなく、偶然にも、この晩は周囲の生活音も響いてこないひっそりとした環境で演じられたyurinaのパフォーマンスは、日常的な身ぶりだけでなく、脚がすっとあがったり、脇や後方に気持ちよく伸ばされたりするダンス的な動きをはさんで構成されていた。主婦らしい装いをした主人公のひとりごととして演じられていくすべては、まるで聾演劇を観るようだった。朝の目覚めから、天板のないテーブルへの接近と迂回、ペットボトルと紙コップを載らないテーブルに載せようとしてくりかえされる空しい行為、部屋の隅にすわり、すでに彼女を去った恋人(あるいは夫)からの電話を待つ様子、テーブルにつく見えない相手の姿にさしのばされる両手、いとしげになでられる椅子の背中や台座、何度となく床に落下するペットボトル、それらが日ごとのくりかえしとしてつづけられていく。誰もいない、もしかするとすでに廃屋になっているのかもしれないこの場所で、どうやらすこし精神に変調をきたしはじめている主人公は、幻想の繭のなかに閉じこめられて生活している。彼女の夢が覚めることは永遠にないかのようだ。

与えられたテーマを忠実になぞりながら、yurinaはそこに人の喪失を重ねあわせ、恋人の不在を受け入れることのできない主人公を演ずることで、天板のないテーブルを彼女自身として描きだした。ある日突然、自分を「毒虫」としか感じられなくなるカフカの物語は、天板のないテーブルを介して、恋人を失った主人公の自身(の身体)に対する異物感へとつながったのである。その一方で、ダンス的な手足の動きは、チェルフィッチュのように、こうした場面設定や演技の外部からやってくるものとしてあり、主人公の意志にかかわりなく勝手に動いてしまう別の生き物のようだった。くりかえされる日常の風景は、劇的瞬間の到来による終焉を期待させた。たとえば、気持ちよく伸びていくyurinaの手足が、天板のないテーブルをまたぎ越していき、彼女を包む幻想の繭をみしみしと踏みしだいていくような、質的な場面の転換を期待していたように思う。しかし彼女の行為はドラマ性を帯びることなく、yurinaの演技は、そのようにする身体の存在を最後まで許すことはなかった。

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