8月12日演目、CM完成しました。

CM。
クラウド・チキンシリーズの最後を飾る公演。スペースの運営&ブログスタッフである川津望と古沢健太郎とのコラボレーションとなります。

当日は是非.kitenまでお運びください。

8月の朝読書会のお知らせ

毎月1回、土曜日に開催される朝読書会。
8月の題材はブルーノ・シュルツです。

※ブルーノ・シュルツ(Bruno Schulz) はポーランドのユダヤ系作家・画家。ヴィドルド・ゴンブローヴィチ、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチと共に、戦間期ポーランドでひときわ異彩を放った作家の一人として再評価されており、現在その作品は世界十数ヶ国で翻訳されている…(後略、川津望氏のテキストより)

https://www.facebook.com/events/825373954298078/

10時開始。9時45分開場

参加費 2千円
お茶とお菓子つき

今回は『大鰐通り』を原作にした映像作品も上映してみたい。

作品について語ったり、朗読したり、
作品をモチーフに自作を披露したり。
パフォーマンスも可。

気楽に参加してくだされ。

8月17日、批評学的狂乱の夜を。

8月17日、カイガイシ・ナミ+マキメ・ジュンによる「フランティック・クリティック」上演! 貝ヶ石氏はこの後NYへ渡るとのことで、氏の踊りを目撃できる今年最後のチャンスとなるかもしれません。是非お越しください。

https://www.facebook.com/events/1954682798079803/?ti=icl

フランティック・クリティック 2017.8.17 20h start  in .kiten

万城目純 ディレクション『虚実皮膜劇場』

出演:貝ヶ石 奈美・万城目 純
音楽:織田理史
写真:大杉謙治

日時 2017年8月17日(木) 開場19:30 開演20:00
木戸銭 2千円      終演後交流会あり(参加任意)参加費千円

Kaigaeshi Nami: ルードラべジャール卒業。べジャールバレエ団研修ののちイタリアなどでソリストとして踊る。13年に渡米、ニューヨークに拠点を置き、コンテンポラリーダンスを中心に活動。
万城目純『虚実皮膜劇場』:本年の熱夏に突如誕生した予測不能な激城。

会場:.kiten(東陽町駅(東京メトロ東西線)4番出口を出たらすぐ左折、「東陽町駅自転車駐車場」の看板のすぐ先を左折。・次に車道に出たら左折し(正面に「東陽町ハイホーム」の看板のあるマンションが見えますが、これは.kitenとは別棟の入口です)、右手のグランヒルズ東陽町がとぎれた角を右折。・左手に平屋建ての飲食店が並ぶ向かい側の、白い外壁に赤いラインがアクセントのビルA棟エントランスより中に入り直進。・管理人室や自販機、エレベータの前を通り抜け、どんどん奥に進むと、駐車場を左手に見て突き当たりの121号室が.kitenです) 07055640268 reamono39@yahoo.co.jp (ホワイトダイス)

8月4日と6日は二人芝居

Web編集スタッフ滝野原の台湾への移動日が重なったため更新遅れました。

8月4日(金)に続き、8月6日(日)は、.kitenにて二人芝居『みどりの群』上演(本日5日は休演です)。

8月6日の上演は13時〜、16時〜、19時〜の3回。夏向きの不思議な世界とのこと。どうぞお立ち寄り下さい。

 

 

『Lonely Woman~~オーネット・コールマンに捧ぐ夕べ』に寄せて(川津望)

7月30日の日曜日、浅原ガンジーはどこか晴れ晴れとした表情で座り、サックスの歌口を爪ではじいた。この日、アートスペース.kitenで彼の吹き鳴らすアルト・サックスの音すべてに血がにじんでいた。フーゲツのJUNが上体を反らしながら唸る彼の詩、「淋しい女(LONELY WOMAN)」。JUNは声をふるわせたい時にふるわせる、歌いたいときには歌う。ピカソの愛人ドラ・マールの指と指のあいだにナイフのスピードが刻まれていたように、どこかで失って来たものを表現の魅力に変えてゆくのだ。ガンジーのアルトや持ちかえたクラリネットの音、JUNの声にはピカソが言う「深い現実」を通ってきた作ることのできない色彩が宿る。「色彩についての、唯一の抽象的イメージというものは存在しない(※1)。」空間や音、記憶、声、身体に利用されたくない、またそれらを利用したくない。だからこそ“Lonely Woman”はなにもしない。ただ泣くところから来て、泣かれるところへ行く、そのことをのぞいては。

 

客は一言も口をひらかなかった。フーテン族のいた新宿のジャズ喫茶、現在はアルタになってしまった二幸裏手のビルにあった「DIG」……東口駅前、富士銀行先の地下の店「びざーる」でかつてガンジーは働いていた(編註1)。「通っていたが、当時はガンジーと出会っていない。」.kitenの交流会でそうJUNは私に話してくれた。90年代の終わり、JUNのホームページ、そのBBSにガンジーが突如書き込んだ。「会ってみようよ。」それ以来の付き合いだと言う。今回の“Lonely Woman”も何度かガンジーとやっているんだ、JUNは人懐こい微笑を浮かべた。タイミングはオーネット・コールマンの命日、6月11日。一気に企画は持ちあがった。ただガンジーの体調が悪くなりはじめてね。JUNは自分で紙コップにビールを注ぎながらさみしそうに目を細めた。なに、本人は「生前葬」なんて言うのだけれどね。

 

「淋しい女(LONELY WOMAN)」中盤で、実験躰 ムダイの白い足が白い袋を突き破った。彼女はオーネット・コールマンへの追悼とリスペクトの気持ち、言語化できないなにかを身体表現に託した。JUNが「哭きおんな~ジョローナ」のポエトリー・リーディングへ入ると、それまで肉体の内から外へ絞りだすかのようなダンスで観客の視線を一手に引き受けていたムダイの身ぶりに変化があらわれた。「情動的に合っている」と自傷行為、職業行為、自分自身への追悼の思いは重ねられる。次第に麻痺してくる「哭き女」の行為を、ムダイは彼女独自の喪の色で染めあげたのだった。白人とは決して交わってはいけないと教えられていた先住民の女性が白人男性と恋仲になり、子どもを産む。恋人が国へ戻ることで置き去りにされた母子。子どもは白人の血を引いていることを理由に川に捨てられ殺されてしまう。そんな「泣き女(ラ・ジョローナ)」伝説だが、ムダイは同じ動きを繰りかえすことで追悼を生誕のことほぎへ裏がえしたのだ。古沢コラボレーションシリーズⅢで町田藻映子の使ったカスミソウがムダイに渡り、ときに踏まれ、赤い紐で引きずられ、弔いの花となって.kitenに咲いた。徒花は実を結ばなくとも散り際までかがやく。それが恋人の腕のなかであっても、あの頃の新宿東口駅前広場であっても、オーネット・コールマンが来日したあの日のサンケイホール、最前列の中央であってもだ。

 

公演のラストを飾った「ある愛のうた」では、鯨たちが海面に愛の絵を描く様子の目に浮かぶようなリーディングと即興。カーブド・ソプラノ・サックスの新たな波も加わって、フーゲツのJUNとガンジー、そしてこの作品にはヴォイス・パフォーマンスで参加の実験躰 ムダイは生まれてくる音をそれぞれ讃えながら荒れた夕べの海を泳ぎきった。

 

「生前葬が済んだのでこれから、大手を振って生きていける。」ガンジーが私のフェイスブックの投稿に書き込んでくれた言葉だ。彼は泣かれるところへ行くよりも、泣かせる音を紡ぐ表現者である。“Lonely Woman”の泣く理由を知っていながら、そのことについて言葉では絶対に人に告げない浅原ガンジー。ならばそのアルト・サックスでこれからも、現代のドラ・マールを「どちらかに決めるつもりはない。闘え(※2)。」以外の熱情で包みこんでもらいたい。

 

 

(※1)武満徹著『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)p.136から

(※2)パブロ・ピカソが彼のアトリエでドラ・マールとマリー・テレーズへ言い放った言葉。

(編註1)かつての新宿界隈のジャズ喫茶等々の状況についてはこの記事に詳しい。(編註2)またドラ・マールに関する記述の根拠となったのはこの記事とのこと。いずれも川津望よりの情報提供。

7月30日はダンスとポエトリー・リーディングの夕べ

7月最後の日曜日は、風月純史氏による企画

Lonely Woman〜〜オーネット・コールマンに捧ぐ夕べ

が開催されます。

オーネットの名曲にして傑作曲である「ロンリー・ウーマン」(アルバム『ジャズ 来たるべきもの』に収録)にインスパイアーされてできたポエトリーをリィディングします。
またこの企画は、再度の来日を果たせないまま一昨年亡くなったオーネット・コールマンを追悼し、リスペクトするイベントでもあります。

企画及びお囃子方:浅原ガンジー(as)
コンテンポラリー・ダンス:実験躰ムダイ
ポエトリー・リィディング:フーゲツのJUN
会場アートデコ:月読彦
2017年7月30日(日)19:00〜
入場料金:2,000円
公演後自由参加形式で打ち上げ交流会もあります(お一人様1,000円)。
ふるってご参加のほどお願い申し上げます!

「クラウド・チキン」、まだまだ続きます

現在開催中の「クラウド・チキン」ですが、古沢コラボレーションシリーズの予定されていた3回を終えました。
そしてこのたび、古沢氏と、当サイトスタッフブログにて当該シリーズに関する総評を執筆した詩人/パフォーマーの川津望氏とのコラボレーションが新たに企画されています。是非お越しください。

8月12日 川津望+古沢健太郎

他者のなか鳴り響く自分の音~古沢コラボレーションシリーズを終えて~(川津望)

.kitenにおいて7月11日からの毎週火曜日、音楽家古沢健太郎と踊り手による「クラウド・チキン 古沢コラボレーションシリーズⅠ~Ⅲ」が開催された。

はじめに古沢健太郎の音楽に関して私が覚えるところを少し。アンビエント、ノイズ、ドローンそしてフィールドレコーディングなど駆使し、音の出自を限界まで消し去る作風で楽曲制作に打ち込む。古沢にとって音と音は縦や横で結びつけられた関係ではない。つまり西洋音楽的法は持たないということだ。音は音楽家にとって傷/エクリールである。一方、既に起ったもの……編集可能な過去の痕跡としての音でなく、その動きつづける状態や身ぶりを古沢はいつも担って来た。

シリーズⅠで古沢は罪/つくよみというひとつの世界と出遭った。月読彦によるインスタレーション「クラウド・チキン」が輝きまたうす闇へ沈むはじめの10分間、踊り手は椅子に座ったまま微動だにしなかった。音楽家の即興は「動かない舞踏」と対照的な空間を探ろうとしていた。音響と古沢の視線の行方を追うかぎり、彼からは内的な激しい矛盾とたたかっている印象が見受けられた。古沢の準備、調整した音がどのようにさし宛てられても、罪/つくよみの上体はやや前へ傾いたままジョン・ケージの《4’33”》の譜面上の記号のように音楽家自身をも巻き込み、空間が舞踏家の舞踏と音楽になっていた。

18日、シリーズⅡで古沢の抱えた矛盾は新しい動きをはらみ、音楽に新鮮な空気を通わせた。シリーズの自己紹介文として踊り手、栗山美ゆきが引用したテキストは谷川俊太郎の「はだか」(『はだか 谷川俊太郎詩集』より 著者:谷川俊太郎 絵:佐野洋子 p.19~p.21 筑摩書房) だ。自分以外だれもいない「るすばん(※1)」と仮定した空間で踊り手は、まるで使いはじめて間もないからだの緊張を「じめんにかじりつ(※2)」くような体躯の粘りであらわした。彼女の注射器へ溜まってゆく血に見惚れる快楽にも似た表現上の好奇心、自身の身ぶりに時としてそむく踊りの陰翳、それは古沢のふくよかな無音によって水を得た魚のような動きへと変化した。栗山の緩急ととのえられた運動の機微も手伝い「クラウド・チキン」が蛇の抜け殻にも見えてくる瞬間があった。

表現者が他の世界と出遭う時、アイデンティティを無数に持つ/どこにも持たない存在の無意味なることにこそ表現による抵抗の力は宿る。25日、シリーズⅢで、日本画家でもある町田藻映子はまず古沢のパフォーマンスがなされる卓へ花瓶などに活けたカスミソウを置いた。私は照明の切りかえによる影の変容にも注目した。月読彦が照明の光を「クラウド・チキン」から音響機材の並ぶテーブルへ移すと、舞台正面に映し出された花の影と横に伸びてゆく踊り手の身体へ観客のまなざしは集まった。「クラウド・チキン」よりも明らかに儚い町田のインスタレーションの軸となるカスミソウ。その属名“Gypsophila”(ギプソフィラ)がギリシア語の“gypsos”(石膏)と“philios”(愛する)を語源とするところや、「幸福」という花言葉にも、美術家としての町田の見立てが息づいていた。今まで他者との出遭いを音楽活動の血肉にして来た古沢。シリーズ後半、順次進行を使うことで抒情性が空間へと吹き込まれた。また肌をしろく塗った踊り手の息遣いが音楽家の旋律的な音の運びに呼応していた。ステージの中央で町田によって引きちぎられた「クラウド・キチン」の一部、それは重力の垂直な力動を思い出させた。

これまで古沢の音は、無記名の揺れとして「わたしは音ではない」とさえ主張しているように感じられた。勿論、その方向性も重要である。「一つの音が響く時ほかの音は黙る」とは古沢本人のことばだが、今回三名の踊り手との邂逅によって他者のなかで鳴り響く自分の音の存在を認識したのではないか。三つのコラボレーションで誰よりも他者の音、生きている音に耳を澄ませた古沢健太郎。恐らく現在、古沢は傷/エクリールとしての音、他者の世界では自分が世界のひとつの可能性として耳を傾けられていることも踏まえ、次の準備に取りかかっているにちがいない。

 

(※1) 谷川俊太郎 「はだか」より

(※2) 谷川俊太郎 「はだか」より

 

編者註:なお、本記事の執筆者である川津望は、8月12日に古沢健太郎とのコラボレーションが予定されている。