「水のトーテム」12日 町田藻映子公演ご報告

(撮影:月読彦)

もはや速報とも言い難い1月17日となってしまいましたが(サイト管理人が海外長期出張中のため、海外からのアクセス確立に時間がかかりました)、1月12日、町田藻映子氏を迎えてのコラボレーションが行われていました。どこかひそやかで懐かしく危うい、伝説のような寓話のような時間。

水のトーテムの作成者にして作品世界の管理人たる塚本氏による公演報告は以下の通り。

偶然にも、開始完全暗転したのち、屋根から雪が落ちるような大袈裟な音が響き、町田藻映子の公演は始まる。

公演開始直前まで塚本の青いトーテム弄りが視覚により崩れることを予期していたが、闇のうちに聴覚が結果を伝えたのだった。
一つの赤いトーテムを抱きしめた白装束かつ白塗り町田が客席からゆっくり現れ、しかし事実その大袈裟な音には聴こえなかったそうだ。照明が灯り目が慣れる頃には、青いトーテムが雪崩れた姿が露わになる。しかし町田は気に留めず、自己の内側を弄ぶように、赤いトーテムに執着している。いや、もともと青いトーテムなどどうでも良いのかも知れない。彼女の興味は光だったかも知れない。
やがて、踊りかどうか無分別の、幽かな精霊の童は弧を描く。

塚本が水面を映す頃、童は壁に映える水染を観やる。細かな打ち合わせはないものの、塚本が青いトーテムを建て直すこと、それを町田が邪魔することは決められていた。しかし、今はその時期ではない。関係性の問題だ。童が赤いトーテムを床に置く、その時までは一先ず待とうと決め込んで、塚本は無残な青いトーテムを放置しながら、一曲目Jim O’Rourkeを選び出す。
おもむろに客席に近づく町田は今まで我が身の如く弄んだ赤いトーテムを観者に託す。もう飽きたと言わんばかりに。
塚本は観者との関係性を作る必要に迫られた。偶然とは予期せぬこと、暗転からすでに始まっており、塚本は観者に橋を投げかける。しかし、観者との関わりは持てぬまま、結果、赤いトーテムを預かることになるのだが、この赤いトーテム、はて、どのようないきさつであったか?

もちろん、町田には選択する余地があった。赤いトーテムを持って現れるか、髪を結んで赤いゴム紐で結ぶかが青い世界に赤を纏う彼女の二択であり、しかし、彼女自身そこまで赤の意味に拘りがなかった。しかしながら、観者には赤子であり、月経であり、子供の頃に押し付けられた不幸の刻印であった赤は白塗りで乳白色になり、これも偶然にさらに幽けき美しさが強調されていた。

塚本が意を決して、赤いトーテムを青いトーテムに積む頃、鬼の形相で童はそれに突っ込む。崩し、また崩す。塚本は積む、また積む。繰り返すこと数分、ついに町田はそれとともに死んだ。観者からはそう見えたのは、塚本はその時、積むという動きのみに意味を持ち、町田は感情に揺さぶられていたはずだったから。感情のあるものは死ぬ、そして蘇る。(感情無き者は死なない、そして蘇らない。)

町田は子供の頃の感情に揺さぶられていた。それは開始前、白塗りをして浴槽室で待つ間、ずっと考えていたことだった。水のトーテムの空間に、懐かしい子供の頃を感じる、しかし、子供の頃はどうしてそんなにも、怯え、不安に晒されてなければならなかったのだろうか、と考えていた。渡された赤いトーテムを抱きながら、考えていた。もともと感情に流される踊りでなく、からだ自体や機能に踊りを見出していた町田は今日の始まりは感情を引きずって弧を描き、トーテムに突っ込んで死んだ。そして、蘇る。

立つこと。空をゆびをなぞる踊りが現れる頃、光の映像は油と青い水が揺れだす。立つことを見出した踊りは、丁寧に空間を作って行く。
Tim Hecker 、Fenneszとメロディアスなノイズが散りばめられ、束の間の舞台は終わりへと向かう。最後に、息を、その小さな小さな手の内に溜め、息を、やっと見つけた安らぎを大事そうに町田は塚本に渡す。水の光は落ち、舞台は終わる。

1/12 町田藻映子公演に寄せて。

(塚本よしつぐ)

(撮影:ともに月読彦)

 

8日公演速報、および明日12日公演ご案内

8日の日中をかけて行なわれた空間のしつらい、そしてそこで行なわれたパフォーマンスに関する少し遅めの速報(サイト管理スタッフが不覚にも寝込んだりしたためです、すみません)公開しました。

明日、1月12日は町田藻映子によるパフォーマンス。ウィークデー公演につき開始時間は20時〜となります。どうぞお間違いのないようお越しください。入場料は変わらず2000円です。

速報: 水のトーテム 山岡さ希子Sakiko 『Black Cosmos on the Palms』

(撮影:川津望)

「水のトーテム」8日に行なわれたのは、昨年は「12時間バターを見つめる」のパフォーマンスを行なった山岡さ希子氏によるワークショップとパフォーマンス。

以下、今年も山岡氏と共に1日を作り上げた塚本よしつぐ氏による報告。

★★★

山岡さ希子ワークショップ
〜静かに丁寧に〜

1.

水のトーテム自体をどこに置こうか。わたしはまず空間の中央よりをえらんだ。最終的には「手のひらの黒宇宙」をする際、養生のためのシートを引くのが決まっていて、それをどこに設置するかということを再検討した。真ん中にあると、ややまわりをくるくるまわるような一種の儀式的な様相を帯びてくる。
水のトーテム自体がパフォーマンスにとって、障害である。わたしは壁際に水のトーテムをコの字で寄せた。バリケードとして障害である水のトーテムで空間の入り口付近をふさぐと、この空間に入ること自体が、水のトーテムの中に入るひとつのアクションであり、空間全体がトーテムになるのではないか。
一度バリケードをめぐらせた。そうすることで参加せざるを得ない状況、観客もどう水のトーテムに入るのか、入らないのか、選択することを余儀なくされる。

われわれはお客さんが来たときに「どうぞ(welcome)」としかいいようがない。
その前にイエスとしか言わないという案もあったが、バリケードに否定的な態度、すなわちこれは「入れないのですか」という問いに対してもイエスとしか言えないことは不本意である。よって、われわれは「どうぞ(welcome)」と言う境地に達した。

2.空気の彫刻についての提案

わたしは最初山岡が空気の彫刻と言ったときに、何か気功のような行為をふたりでおこなうのかと思っていた。実際には、このバリケードを作ることが空気の彫刻を作ることであった。
その後、ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻という概念とはどう関係があるのか、それについて話し合った。
われわれのおこないたいパフォーマンスは、正義の問題とは異なり、迷う、戸惑うということを敢えて観客に起こさせることも許容である。その考えに至った。

3.「手のひらの黒宇宙」の進め方について

音を聴いている態度が重要であり、音が飽和したらとめることを心がける。たとえば振動、音、空気、墨のにおい。
作品を共におこなうことが目的であり、同じ動きをすることではない。目的が一緒であれば、ちがうやりかたでおこなうという結論にいたった。

なお、月読彦は南極の氷を割るようにあしうらを小刻みに引きずりながらバリケードからトーテムへ入った。

報告:塚本よしつぐ

★★★

そしてこうやって準備された空間に対する応答のひとつとして、川津望氏は以下のように感想を寄せています。

ー水のトーテムで作られたバリケードの中にはもてなしのととのいがあった。わたしは公演の際体調が悪く、トーテムバリケードの外で公演の静謐な音に耳を傾けていた。壁に寄りかかり、目をとじて塚本氏と山岡氏のパフォーマンスを体感した。想起するよりひかりに近いはやさで、おのおのの手のひらへ触れてゆく一瞬の彫刻。脳が選んで運んできてくれる墨の香りや墨をする音、何かをめくる音が塚本氏から発せられたものとも山岡氏からのものともわたしは見ることができないのだが、すぐそこで鼓動しているあたたかな身体、仕草を感じた。どのような身体状況にあってもその時その時の参加の仕方を示してくれる「welcome」で満たされた空間だった(川津望)

写真も同じく川津望。当日撮影した“水のトーテムの中にある夕暮れ”とのこと。

 

「水のトーテム」1月7日公演速報、そして8日公演のご案内

1月5日より公開されている「水のトーテム」、本日の公演は「眠れぬ夜のメタファー 万城目純+貝ヶ石奈美in水のトーテム」でした。別エントリにて.kitenスタッフ川津望による鑑賞速報を掲載しています。

こちらは公演前のオフショット。

日々積み上げられる水のトーテム。撮影はいずれも川津望。

明日、1月8日は、山岡さ希子Sakiko『手のひらの黒宇宙Black Cosmos on the Palms』Performanceです。入場料2,000円は通常通りですが、いつもの土日より1時間早い18:00の開演となりますので、お間違いのないようお越しください。

 

速報:眠れぬ夜のメタファー 万城目純+貝ヶ石奈美in水のトーテム

 (撮影:大杉謙治)
  (撮影:大杉謙治)
こちらは公演の模様。写真はご来場下さった大杉謙治氏。
この日のディレクションは万城目純氏。ダンサーの貝ヶ石氏の存在を媒介しつつ、塚本氏の作り上げた「場」へ有機的な脈動をもたらす、刺激的なコラボレーションとなった模様。
以下は.kitenスタッフ川津望氏による公演レビュー。
冒頭、ジャケットとコート姿というフォーマルないでたちの貝ヶ石奈美と万城目純は壁面に設置された塚本の作品を眺めるところからはじまる。ヒールの高い靴を時に引きずりながらカバンから取り出した真っ赤な口紅を引く貝ヶ石の口元に浮かぶ「奇妙なえまい」。それは川端康成的な喪の女の特異さを得て、眠れぬ夜は万城目の「人は死にむかって成長してゆく」という囁き声から徐々に空間をまなうらへうつす。水のトーテムのうしろへまわり、突如レオタード姿になった貝ヶ石は手足を蔦のように空間へ絡める。貝ヶ石のはらむ官能と身体のやわらかさへ、塚本のOHPによる「でろり」とした液体の繁栄が夢に深遠な連想をもたらしてゆく。漆黒のシャツを着た万城目が氷の入ったボールを持って登場、そして巨きなラップは、リゴルモルチスのように貝ヶ石の佇まいの崇高さを保ったまま、しずかな乱れへと音と共に巻き込む。水のトーテムの意味がずれてゆく。すなわちシャワールームは塚本曰く「今日は精液に見える」という壁面の作品によって乱反射しつつ増殖する。氷を頬ばり、吐き出す貝ヶ石。水中の吐息は夢の中では重力の力さえ引き受ける。ベリー類や氷をひとしく絞る万城目の積極によって水のトーテムは名指し得ない神秘をたたえた絵図となる。塚本がOHPから赤い反映を貝ヶ石に投げかけるとき、それは日の出なのか、凄惨な結末なのか。未成熟な誕生をことほぐかのように万城目のくちから「死んでゆくのはいつも他人」のことばが発せられる。(川津望)
記録、よりも、時間と空間の記憶の共有の手がかりとして、あるいはその場にいられなかった人たちへの、空気のひとひらの贈り物として。
  (撮影:大杉謙治)

速報:「水のトーテム」オープニングトークセッション

本日1月6日は「水のトーテム」オープニングを飾る、批評家・宮田徹也氏によるトークセッションでした。

幕開けは浅原ガンジー氏のクラリネット演奏

(撮影:川津望)

その後、塚本氏を聞き手として、宮田氏による熱いトークセッションが展開しました。

(撮影:川津望)

セッションは「アーティストになれ! という観点から宮田さんの実体験を踏まえたアーティスト論考が展開。生活の異常事態性、戦争に関するところから、現在は戦争すらできない、国ということが曖昧になりつつある中で、第二次大戦よりもっとひどい状況になりつつある。ハンナ・アーレントのはなしをとおって、今こそアーティストにならなければいけないという警鐘的なトークでした」(まとめ:川津望)、という展開へ。去年から引き続き、アーティストになれ! というアジテーションとそれを巡る論考が述べられたとのことです。

明日は万城目純氏・貝ヶ石奈美氏コラボレーションによる「眠れぬ夜のメタファー」同じく19時~、入場料2000円です。
水のトーテムの世界を舞台に、万城目氏のディレクションによる物語が展開してゆきます。どうぞ見届けにお越しください。

「水のトーテム」始まりました

(水のトーテム会場、即興パフォーマンスする塚本氏。撮影:川津望)

.kiten新年企画「水のトーテム」、昨日1月5日の新年会を兼ねての大即興会は非常な盛会となりました。速報ということで掲載許可をいただいた写真からご紹介。

本日1月6日は、批評家・宮田徹也氏によるオープニングトークセッションです。昨年は「アーティストになれ」というアジテートに結実したというセッション、今年はどのような展開が現れるのか。

入場料2000円、19:00~
恒例の懇親会もございます。

是非、足をお運びください。

2018年、始動。

アートスペース .kitenの2018年は本日より始動。

今日は塚本よしつぐ氏委嘱作品「水のトーテム」のプレオープニング、.kiten新年会も兼ねての大即興会です。通常の.kitenイベントの入場料が2000円のところ、本日はパフォーマンス参加者については1000円に割引いたしますとのお年玉企画です。新年会も兼ねるということで、是非、差し入れをお持ちになってお越しください(差し入れナシの場合は参加費がちょっと値上がりします^^;;;)。

浅原ガンジー氏によるスペースのリニューアルもなされ、また、一時期は封鎖されていたシャワールームも使えるようになったとのこと。新生.kitenが皆様をお待ちしております!

また、批評アーカイブには昨年12月26日に上演された深谷正子氏・佐藤ペチカ氏による〈GUU・偶・シリーズ〉vol.10に関する北里義之氏の評を掲載いたしました。こちらも是非お読みください。

批評アーカイブ目次

動体証明からゴク私的ダンスへ  ――深谷正子×佐藤ペチカ<GUU・偶・シリーズ>vol.10『蟻と太陽と私』(評:北里義之)

速報:量産型美意識への反逆――トビハ「クラウド・チキン」(評:北里義之)

即興演奏するダンス──木村 由「クラウド・チキン」(評: 北里義之)

まるで聾演劇のように──yurina「天板のないテーブル」5日目(評:北里義之)

穴だらけの空間で──南阿豆「生成/〜になる」最終日(評:北里義之)

胎児のまどろみ、羊水としての水──田辺知美「水のある光景」(評:北里義之)

深谷正子「水のある光景」(評:北里義之)

横滑ナナ「水のある光景」(評:北里義之)

武智博美「水のある光景」(評:北里義之)

岡佐和香「水のある光景」

「〈動体証明〉の証明」11/27 Guu-偶 コレクション 3つのソロ~くだをまく~佐藤ペチカ 斉藤直子 深谷正子 @kiten(評:宮田徹也)

日本文化の根底を模索する―「Performances & Exhibition 浜田剛爾展」(評:宮田徹也)

批評◎『GUU―偶―くだをまく』(評:宮田徹也)

批評◎GUU-偶-Vol.③(GUUシリ─ズコレクション)『スネの傷をめぐる2つのソロ』(評:宮田徹也)

動体証明からゴク私的ダンスへ  ──深谷正子×佐藤ペチカ<GUU・偶・シリーズ>vol.10『蟻と太陽と私』(観劇日:2017年12月26日)(評:北里義之)

(撮影:宮川健二)

 アートスペース.kitenのスタートを記念する企画のひとつとして、2013年から翌年にかけて集中的におこなわれた深谷正子と佐藤ペチカの<GUU・偶・シリーズ>は、会場の狭さを逆手にとり、この場所でしか可能にならない身体表現を構想し、月例パフォーマンスによってその可能性を模索していく試みだったが、シリーズが進むにしたがって観客の視線の近さからくる閉塞感に精神的ないきづまりをきたし、一年で中断することとなった。『蟻と太陽と私』は、封印されたこのシリーズを、3年ぶりに解き放つ公演だった。彩の国さいたま芸術劇場で公演された川口隆夫『大野一雄について』を観劇した帰途、踊り手ふたりと.kitenの主宰者である奥野博の間で急所決定された公演。それは偶然に起こったものではなく、やはり「時熟」というようなもの、身体が持ち運んでいる時間がおのずから満ちて開かれたものというべきだろう。再開公演の実現を可能にしたこの3年間における踊り手の変化を、深谷自身の言葉によって、「動体証明からゴク私的ダンスへ」ということができる。それはおそらく振付家としての深谷正子が構想した新たな身体表現のヴィジョンを、踊り手としての深谷正子が受容していく年月だったのではないかと思う。このような身体の旅を実現するために、佐藤ペチカの存在は欠くべからざるものだった。

 

「はい、おくしゅり。わすれないで。おだいじに。」などといいながら延々と一人遊びする子どもの声に軽快な音楽を重ねた音響(サエグサユキオ)が流れるなか、あざやかなグリーンの短パン上下に白のブラウスを羽織るように着たふたりの踊り手がならびたつ。顔の向きだけを動かしてしばしの静止。踊るというより、もじもじと動きだすといった感じのふたりは、相方に肩をつけたりブラウスの端をつかんだりして、身体の一部を離さないようにしながら密着ダンスを展開していった。本シリーズで深谷がコンタクトを試みるのは初めてとのこと。そもそも通常のダンス・セッションにおいて深谷はコンタクトを極端に嫌う。共演者が近づけば逃げ出すほどである。これは<GUU・偶・シリーズ>の佐藤ペチカという枠組みがあってこそ実現したコンタクトダンスなのである。

 

共演者に身体の一部を密着させながら周囲を回ったり、背中と背中をぴったりと合わせて相手に乗りかかっていったり、プロレスの四の字固めを思わせる格好で床に寝て足をとったりするコンタクトの様子は、深谷が空手チョップでペチカの背中や足の裏を弱々しくたたいていたせいもあり、終始プロレスめいた雰囲気を漂わるコミカルなものだった。デュオが格闘する様子は、ダンスの犬 ALL IS FULL 公演『落下する意志あるいは水』(2017年5月、高田馬場プロト・シアター)で、ペチカが3脚の椅子と格闘して組み伏せた荒技に直結している。唯一の舞台装置といえるのが、下手に寄せて敷かれた水色と白のストライプ模様のマットとそれに盛られた一山の砂である。公演の最後の場面は、このマットをふたりの間に引き寄せ、ペチカが立てた左足の膝をおおうサポーターの部分に、深谷が右の足裏をつける格好ですわる姿勢をとりながら、ふたりして周囲から砂山をかき崩していくものだった。砂のなかから凝固した砂の塊を掘り出すとふたりは立ちあがり、公演冒頭に戻って、下手の深谷がペチカの右腕をとる形でならびたつところで終演となった。

 

アートスペース.kitenは、パフォーマンス・スペースとしては極小の空間といってよく、その狭さが踊り手に様々な制限を課してくる。暗闇を作ったり、照明を工夫したりすることで観客の想像力をかき立てる方法もあるわけだが、<GUU・偶・シリーズ>は、そうした演出を排除して、場所の身体性をむき出しにするようなダンスを構想したといえるだろう。動きや身ぶりの形を超えて観客の視線を誘発してくる身体をまるごと提示することで、その生理までをもリアルに感じ取らせるダンス。のちに深谷自身によって「ゴク私的ソロダンス」と命名されることになる方向が、それとは知られずに模索されていたといえる。日常的なしぐさをダンスに取り入れるポストモダンダンス的なタスクとは違って、ダンスという場そのものを動かすため、自立する踊り手として蓄積してきたはずのダンスの文法を、これまでとは逆に、ひとつずつはずしていくような作業。その結果、どこへおもむくことになるのかはわからない終着点に、Xとしての身体を置くこと。こんなふうに無条件に身体を信じられるのは、女性ならではの特権だろう。動きの細部が際立つ環境のなかで、ふたつの身体の間で、触れる/触れられる、引く/引かれる、押す/押される、乗る/乗られるといった動作が瞬時に反転していくありさまをつぶさに見せながら、それが踊り手の体力がつづくかぎりどこまでもつづいていくダンス・パフォーマンス。3年ぶりにおこなわれた<GUU・偶シリーズ>の『蟻と太陽と私』は、まさしく「ゴク私的ダンス」のデュオ・バージョンとなっていた。■

(2018年1月2日 記)

 

 

【補註】これまでにおこなわれた「GUU・偶シリーズ」のうち、第3回『スネの傷をめぐる2つのソロ』(公演日:2013年8月19日)、第5回『くだをまく』(2013年10月29日)、第6回『くだをまく』(2013年11月17日)については、宮田徹也氏による公演評が「批評アーカイブ」に再録され概要を知ることができます。